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仕事観の変遷②(キリスト教社会)―仕事観の背景にある宗教

 様々な時代の様々な仕事に対する考え方(仕事観)を参照することで自分に合った働き方を模索しよう、という試みの第2回である。前回は「仕事観の変遷①(古代ギリシャ)―労働を取り除く or 積極的に評価する」と題して、労働に対する2つの正反対の考え方を紹介した。

 今回はもう少し時代を進めて、キリスト教が登場した後の西洋世界(ヨーロッパ、アメリカ)の働き方について紹介したい。日本はキリスト教社会ではないので、あまり馴染みのない話が展開されるように多くの読者は思われるかもしれない。だがよく検討してみると、現代日本でもしばしば耳にする「勤勉」を重視する価値観の背景にある宗教の存在が明らかになってくるだろう。

 

(1) 古代キリスト教カトリック

 西洋世界において人々の生活に非常に大きな影響を及ぼすのはキリスト教である(あった)。Tilgher (1929) によるマタイの福音書の引用には、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。……神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば……これらのものはすべて与えられます」とある。このように労働や富それ自体は軽視された。先の古代ギリシャ人の考え方と同じように、日々の生活を超越したもの(神)が設定されたことで、仕事や労働が顧みられることはほとんどなかった。唯一労働が必要とされるのは、心と体の健康を維持し、悪い考えや邪な本能を抑え込む手段としてであり、「労働それ自体には何の価値も認められていなかった」(Tilgher, 1929)。

 中近世のカトリック社会では「各個人は、親の職業を世襲的に引き継ぎ、その身分と階級にとどまっていなければならなかった」(Tilgher, 1929)。つまり身分と職業が対応し、それらは神によってあらかじめ定められていると考えられていた。日本でも江戸時代の「士農工商」のように職業によって身分が定められていたことがあるし、現代社会においても、職業によってある程度は社会的地位が決まっている(例:医師、弁護士)と言えるだろう。

 そして「神の法則の前では、労働は決して真に自立した尊厳ある目的には至らず、<生>という目的の単なる副次的な手段にとどまっている。同様に<生>は、決してそれ自体が尊厳ある目的にはならず、来世という真の目的の単なる副次的な手段にとどまる」(Tilgher, 1929) のであった。つまり「労働 → 現世(生)→ 来世」という手段→目的関係(図式)がキリスト教徒のあいだでは広く共有されていた。「世俗生活は宗教的には価値の低いものとみなされていた」(高橋, 2011) ので、人々は世俗を離れた修道院で禁欲に励んでいた。禁欲とは「欲望にとらわれている自己を否定し、それを超えようとする」行動であり、人々は自らに難行・苦行を課すことで「自然の地位の克服」を目指した (高橋, 2011)。

 今村 (1998) によれば、この時代の農村から都市への人口流入によって生じた浮浪者と乞食たちは「矯正院 (workhouse)」に収容されたが、そこでは労働が「懲罰」として用いられた。17世紀前半になると、本人の怠惰が原因で貧しい人々は「人間の屑」とされ、神の時間を無駄に浪費しているという理由から非難された。収容所に監禁された彼らには、労働を通して禁欲的倫理が「強制注入」されたのだった。こうして「労働は、昔のように修道院の苦行の手段であることをやめて、社会生活のなかでの一種の教育手段」(今村, 1998) となった。日本の現代社会においても、刑務所では労働が更生手段として用いられており、労働の以上のような側面も依然として利用されていると言える。

 

(2) プロテスタント

 一方、後に現れたプロテスタントでは考え方が異なる。まずルター(Martin Luther:1483-1546)は「神への奉仕の唯一、最高の道は、みずからの与えられた仕事を可能な限り完璧に遂行すること」(Tilgher, 1929) とした。「宗教的信仰心>世俗的活動」という図式は「根本から否定」され、「労働は宗教的尊厳に包まれて彼の手から出て行った」(Tilgher, 1929)。すなわち労働と信仰が結びつけられ、宗教的に労働の価値が認められたのである。

 もう1人の宗教改革の立役者カルヴァン(Jean Calvin:1509-1564)の考え方はルターのそれとは少し異なる。彼は予定説をとなえたが、それは、① 神は人間から無限に離れたところにいる(罪人としての人間は神に近づくことなど到底できない)、② 神はその地点からある人々を永遠の生命に、他の人々を永遠の死滅に予定した、③ 誰が永遠の生命に予定されているかは人間には分からないし、また神のその予定を人間の営為(善行)によって覆すことも不可能である、というものだった (高橋, 2011)。つまり、個人が救済されるかどうかは超越的な神によってあらかじめ定められており、「あらゆる救済手段は無効」(高橋, 2011) となったのだ。しかし、救済されることを強く求めていた人々は、自分が救済を予定されていることを確信させる根拠・証拠を必死に求めた。そして、その救済を求めるエネルギーは労働へと向かった。こうして「日常生活における徹底した禁欲と職業労働への関心」(高橋, 2011) が芽生えた。先のカトリックについての記述から分かるように、従来、世俗活動は低く評価されており、禁欲は主に世俗を離れた場(修道院)で行われていたが、このとき禁欲は世俗(日常生活)で行われるようになったのだ。以上のように宗教的活動(聖)が日常生活(俗)に優る、という序列は解体され、「世俗の生活を送ること自体が宗教的に積極的な意味をもつようになった」(高橋, 2011)。そして「営利活動に精を出し、富を獲得することが彼らの救いのしるし」(高橋, 2011) となり、職業労働に励むことが強く動機づけられた。そして宗教的関心の圧倒的優位のゆえに低い評価を与えられてきた労働は、宗教改革を経たのち、逆に宗教的な裏付けをもって高い評価を与えられるようになった。

 

(3) 日本の現代社会との関係

 もちろん労働を宗教と結びつける考え方は、日本人には馴染みの薄いものだろう。だが特に中近世の西洋では、人々の考え方への宗教(特にキリスト教)の影響力は大きく、宗教抜きに人々の考え方(労働観)の変遷を捉えることは難しい。また現在における労働は宗教的な色を失ったかのように見えるが、その背景、あるいは根底には宗教に由来する考え方が潜んでいる。

 例えば「勤勉」を称賛する価値観は、キリスト教倫理の影響を強く受けていると言える。日本において「勤勉」を体現した存在といえば二宮尊徳(金次郎)である (橘木, 2011, 鷲田, 2011)。鷲田 (2011) は二宮尊徳を「柴を背負って歩きながら、本を読むという、究極の「勤勉」ながら族、ほとんどビョーキともいうべき時間の吝嗇家」と評している。そういった「休みのときですらそれを有効に使わなければ、という強迫観念」を、鷲田は「真空恐怖」と名付ける (鷲田, 2011)。常に何かをしていなければ落ち着かないので、「憑かれたように」(鷲田, 2011) 残業や休日出勤を行う、「仕事中毒 (workaholic)」ともいうべき人々が散見される。

 また今村 (1998) は以下のように指摘する。太古の人々は1日3時間しか労働していなかったと推測されるが、これを怠惰だと思うことは「西欧近代の勤勉主義に毒された偏見にすぎない」。そして「労働は本質的に隷属的」であるとし、「労働は人間の本質である」や「労働のなかには本来的な喜びが内在されている」といった考え方に疑問を投げかけている。確かに労働は人間が生きていくために必要な活動だが、しかしだからといってそれが人間になくてはならない本質的な活動であるとは言えない。最小限の労力で生活に必要な資源を手に入れる、という「スマート」な働き方もありだ。そして労働以外の生活に喜びを見出し、余暇を満喫するという生き方もある。もちろん仕事にも喜びや充実感を感じられる人はいるだろう。だがそうでない(例:不満、苦痛)からといって、必要以上に悩まず、「これは仕事だから仕方がない」と割り切って働くという道もあるだろう。

 

参考文献

今村仁司 (1998)『近代の労働観』岩波書店.

橘木俊詔 (2011)『いま、働くということ』ミネルヴァ書房.

・高橋由典 (2011)「プロテスタンティズムの倫理と資本主義(M・ウェーバー)」, 作田啓一,井上俊 編 (2011)『命題コレクション社会学』(pp349-359). 筑摩書房.

・Tilgher, A. (1929). Homo faber. Roma: Libreria di Scienze e Lettere. 邦訳, アドリアーノ・ティゲル (2009)『ホモ・ファーベル』小原耕一, 村上桂子 訳, 社会評論社.

鷲田清一 (2011)『だれのための仕事』講談社.