OWLの思考

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組織で働くことに対するマイナスイメージの背景

  1. 導入

 先日、とある機会に宇野弘蔵の『価値論』を読んだ。宇野の文体は非常に洗練されておりゆえに読みにくいと言われるそうだが、私はそのマルクス理解は素晴らしいと感じた。以前から『資本論』には興味があったが難解なイメージがあり読めずにいたが、この機会に「他人のための使用価値」と「労働力の商品化」というマルクスの重要な2つのコンセプトについて理解が深められた。今回はこの2つの概念を用いて、私が日々感じている問題を少し解明してみたいと思う。

 それは組織で働くことに自分がマイナスイメージを持っていると感じたことから始まり、それは意外と他の人にも当てはまることで、故に企業の業績が低迷したり社会に不安感が蔓延したりしているのではないか、という仮説を私は持っている。ではなぜ自分と同世代の若者は組織で働きたくないと漠然とした不安を抱えているのだろうか。

 玄田 (2001) は若年の間の仕事に対する「曖昧な不安」が問題であると指摘する。これは「何が原因なのか、一体何がどうなるのか、よくわからない」という「ワケのわからない不確実性」である。彼のこの本でのゴール地点はその曖昧な不安を、その原因を明確にすることによって、「個人が冷静にファイトできる」ように支援することである。私も同じように不安の患部をあぶりだすことで、この問題への解決の糸口を探りたい。

 

  1. 「他人のための使用価値」とマイナスイメージ

 まず宇野 (1996) は商品経済が社会の一部分ではなく全体に広がったものとして、資本主義社会を定義する。彼はベーム・バウェルクのマルクス批判に対して、繰り返しこの社会的な側面を強調している。そしてこの資本主義が支配的な社会においては、生活資料、すなわち生活に必要な食糧や衣料品までも商品として購入することになる。以前は自分で作ったものを自分で消費していたのが、「自己の生産した生産物を商品として買わなければならない」という奇妙な構造に変わる。すなわち生産と消費が分断され、市場で売るために作るようになる。

 このような状況の背景を武田 (2008) は「生産の組織化」という言葉で説明する。以下は私の解釈になるが、マニュファクチュアの時代から機械制大工業になったことで効率化を実現し、生産性は大幅に向上した。特にイギリスの綿工業が有名である。バラバラに作っているよりまとめたほうがコストが安く済む、というのは経済学における「規模の経済」が教えるところであり、また各自が得意なところに特化し交換すれば効率的だというのは「比較優位」で説明される。このようにして人々が効率を求めた結果として資本主義は広がっていった。

 では市場における交換が前提となると何が起こるのだろうか。先にも「売るために作る」と述べたが、「他人のための使用価値」が重要になる。売れなければ商品ではないので、商品交換を起動するために、交換相手にとって有用かどうかが大きな関心となる。しかしこのような生産やそれに関わる仕事は以前とは様子が異なる。自分がいま目の前で作っているモノは自分が使うものではなく、よくわからない誰かが使うものである。その状態で自分の仕事に高いプライドを持った職人ならばまだしも、普通のサラリーマンがそのモノに心血を注ぎこむだろうか。むしろ適当にそれらしく作って、稼いだお金で余暇を楽しもうとするのではないだろうか。このようにモノとの関係がよそよそしくなり、お金を得ることが自己目的化する。独立時計師の菊野昌宏氏は「ビジネスのものづくりは効率性を優先して細分化、分業化、自動化され、つくり手と消費者の距離はおろか、つくり手と『もの』との距離までが遠くなっている」と指摘する (ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2016年 06 月号)。これでは働くことはお金を得るための手段でしかなくなり、交換の対価としての「苦痛」というイメージが形成されてもおかしくない。

 

  1. 「労働力の商品化」とマイナスイメージ

 次に「労働力の商品化」である。まず労働力の商品化とは18~19世紀初頭のイギリスでの2度にわたる囲い込みによるもので、資本主義経済の確立に大きな役割を果たした。生産手段、すなわち土地から切り離された農民が生活資料を得るために自らの労働力を売るしかない状況が起きた。すなわち働くことで対価としてのお金を得て、それによって商品交換を行うというサイクルが出来上がった。本来ならば個々人に属する特殊な「労働力」というものまでも、時給換算される一定の一般性をもった商品に変えてしまうというのは何とも恐ろしいと私は感じた。この結果として企業は「使い捨ての「もの」としてしか、働き手を見ていない」(武田, 2008)。つまり人件費という言葉に現れているようにコストとしての働き手である。これを武田 (2008) は「顔のない人手」と表現する。すなわち労働市場において個々人に特有の個性が捨象され、ただ表面的なスキルの集合体としてのヒトになってしまっている。

 これはあくまでも雇用者側の視点だが、働き手のほうもこの状況に適応し、ある意味では自ら「顔のない人手」になることを選択しているようにも思われる。すなわち自らを商品として扱い、その市場価値を高めることを目指しているフシがある。私がそう考える理由は、英語力やITスキル、さらにはコミュニケーション能力といった、わかりやすい、すなわち個人間比較が可能で市場で評価しやすいスキルを自らに蓄えようとする傾向を感じるからだ。自らも労働市場への登場を控えている世代であり、そのような市場からの圧力や働き手側の適応を実感している。少し仕事からは話が逸れるが、自らを商品化することの別の例として特に若い日本人女性の美しさに対するこだわりもあげられると思う。私の実感として海外の女性は「積極的な美」を志向し、日本人女性は「受動的な美」を志向している。受動的というのは他人の目を非常に意識したもので、商品のようにすぐに消費可能な完成された完璧な美しさを身に纏おうとしているように見える。

 このように自らの市場価値を高めようとする意識の背景には会社など組織への不信感があるのだろう。かつてのような一度企業に入社すれば一生経済的安定が保証される、といった終身雇用はもはや信じられていない。となるといま勤めている会社の業績が悪化したり、倒産したりするときに備えて、どこでもやっていける能力、すなわち「汎用的スキル(general skill)」を自らに蓄えようとする (岩井, 2009)。そして転職を繰り返す ”job hopper” が増える。玄田 (2001) も示していたが入社して3年で会社を辞める割合は大学卒で約3割にものぼる。組織という安定した基盤を持たず、市場という大海に出ていくには常にスキルアップをし続け、そのスキルを売って生きていくしかないのだろう。

 話を仕事に戻すが、一見したところこのような労働の需要側のニーズと供給側の行動が一致しているならば問題はないように思われる。しかしこの市場取引可能なスキルは、市場競争にさらされて瞬く間に陳腐化し、価値が低下することは明白だ。どんどん当たり前の水準が上昇し、供給が増えれば価格が低下するのは経済学が教えるところだ。それに対抗するために、働き手は市場のニーズに常にレーダーを張り巡らせて、自らを柔軟に変化させることが必要となる。だが働き手は人間であり、スキルの塊ではない。このように個性を後回しにしてスキルの集合体として振る舞うことに働き手は違和感や窮屈さを覚えるだろう。これが労働力商品化の結果として生まれた働くことへのマイナスイメージの原因ではないだろうか。

 

  1. 結論

 以上では「他人のための使用価値」と「労働力の商品化」というマルクス経済学の2つの道具を使って、働くことへのマイナスイメージの理由について探ってきた。ではこのような現状に対してどのように向かって行けば良いのだろうか。漠然とした不安を抱えて働くことから逃げているだけでは問題は解決しないだろう。玄田氏も武田氏もその回答として「「労働の主人としての顔」を取り戻す」ことや「自分が自分のボスになる」ことを述べている。私もこの意見に基本的に賛成で、仕事に求めることを明確にし、主体性を回復することが必要だと考えている。

 私は現代の消費社会において問題となるのは、生産や働くことよりも消費することが先立っていることだと考えている。戦後すぐの時代に比べれば日本社会は非常に豊かになっており、働くだけでなく稼いだお金を使う時間的余裕が生まれている。そして現代において人は生産主体から消費主体に移っている。お金があれば何でも買えるという、その物神性が信奉されていることからも分かる。結果としてお金を得ることが自己目的化し、消費のためのお金を得るために消極的に仕事に参画するという現状だ。

 しかし、お金とはそれほど万能なものであろうか、と私は疑問を持たずにはいられない。働くというのは時間とお金を交換するプロセスだと私は考えている。だがその交換比率は今のままでよいのだろうか。すなわち生活に必要なものよりもはるかに多くのものを消費する過剰消費によって過剰労働に陥っているのではなかろうか。それよりも支出を見直すことで自分が生きていくために必要なお金の量を明確化し、ではどれだけ自分は働く必要があるのかというように、時間とお金の交換比率を見直すことが働く側に求められると考えている。時間があれば今までお金で雇っていたサービスを自分でできるかもしれない。例えばお金を払って保育園に子どもを預けていたところを、早く家に帰ったり、たまに休みを取ることで自ら子どもの面倒を見ることができるだろう。報酬を時間でもらうということもありだ。このように働くことに求める最低限のお金の量を個人が明確化できれば、それ以外に自分が働く組織には何を求めようか、というように主体的な問いかけを行い、積極的に組織における仕事と関わっていけると私は考えている。もちろんこういった働き方の実現には仕事の需要側、すなわち企業の制度改革(例:ワーク・ライフ・バランス(WLB)施策)も不可欠である。この自分の考えをただのアイデアに終わらせずに実現するためにさらに勉強を続けたいと思う。

 

参考文献

玄田有史 (2001) 『仕事のなかの曖昧な不安中央公論新社.

岩井克人 (2009) 『会社はこれからどうなるのか』平凡社.

武田晴人 (2008) 『仕事と日本人』筑摩書房.

宇野弘蔵 (1996) 『価値論』こぶし書房.

ダイヤモンドハーバードビジネスレビュー 2016年 06 月号.