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仕事観の変遷①(古代ギリシャ)―労働を取り除く or 積極的に評価する

1. はじめに(問題意識)

 様々な時代に様々な人々が「働く」、「労働」、「仕事」に関して思索を巡らせてきた。それらについての解釈が労働観・仕事観と呼ばれるものである。現代は過去のどの時代よりも働き方の選択肢が多い時代となっている。どの産業で、どういった職務に従事するのか、組織で働くのか、それとも独立して働くのか、どの程度の時間を働くことに費やすのか、日々の生活の中に働くことをどう位置づけるのか、等々、我々の目の前には様々な選択肢が広がっている。だが、何の指針もなしにこの選択肢の大海を漕ぎ渡っていくのは容易ではない。そこで先人たちが提示してきた様々な考え方を参照点とし、そこに自分なりの工夫を加えていくことが有効である。「どんなテーマについても、たいていそれを論じている人がいる。そうした先駆者の考えを参考にできれば効率がいい」(國分, 2011) のである。料理にも美味しく作るためのレシピがある。それをあらかじめ知ったうえで自分なりのアレンジを加えていくことで、型無しではなく、型破りでユニークな解に到達できるだろう。以上の問題意識に基づき、古代から現代に至るまでの仕事観の変遷を概観していきたい。

 

2. 古代ギリシャ時代

(1) アリストテレス―「労働することは必要によって奴隷化されること」

 まず今回は2000年ほど歴史を遡ってみたい。ギリシャ語で労働を指す単語は ”ponos” であり、これはずっしり重い労働を意味する。Tilgher (1929) の指摘のように「ギリシャ人は労働を本質的に労苦および苦痛と感じていた」。「大部分の種族は大地と、そこに栽培された収穫物で生計を立て」ていた (Aristoteles)。すなわち当時の主な労働は農作業(牧畜を含む)であり、まだ道具(例:鋤、鍬)、技術(例:ハウス栽培)や自然についての知識(例:気象予報)が十分でなかったため、その労働は肉体的な苦痛を伴い、自然環境に大きく左右される大変なものであったと推測される。

 よく知られているように当時の労働は主に奴隷によって担われていた。「古代において労働と仕事が軽蔑されたのは奴隷だけがそれにたずさわっていたためであるという意見」(Arendt, 1958) がある。しかしそれは「近代歴史家の偏見である」(Arendt, 1958) とユダヤ人哲学者のハンナ・アレント (Hannah Arendt:1906-1975) は指摘する。彼女の見立てでは、「生命を維持するための必要物に奉仕するすべての職業が奴隷的性格をもつ」ので、「労働することは必然 [必要] によって奴隷化されること」 (Arendt, 1958) だと考えられていた。つまり、「腹が減るから田畑を耕し食べ物を得る」という活動は、肉体的な欲求(必要)に支配された不自由なものであるとされたのだ。そして労働や仕事は「人間の必要や欲望と関係のない自由なものではありえなかった」(Arendt, 1958) ので、低く評価されていた。

 肉体の必要(空腹)に従い、苦痛を伴う肉体労働(農作業)を強いられる、という不自由な存在は、当時の哲学者には受け入れられなかったのだろう。その代表であるアリストテレスは、人間でありながら行為に関わる「道具」となり、自分以外のものに支配されている人間を「自然による奴隷」と呼び、その意味で奴隷制を肯定した。彼は自由独立に価値を置き、そのための「自足」、すなわち「すべてがそなわり、何ひとつ不足していない」状態を善しとした (Aristoteles)。アレントも「古代の奴隷制は……実に人間生活の条件から労働を取り除こうとする試みであった」(Arendt, 1958) と述べるように、肉体の必要から自由になろうという欲求が、専ら労働に従事する奴隷を生み出したと考えられる。

 

  • 家事労働と代行サービス―必要に迫られた労働からの解放

 アリストテレスは「奴隷は主人の一種の部分」であると述べているが、これはすなわち、主人の労働を外部化 (outsourcing) したものが奴隷であるということだ。彼は必要に迫られた、あるいは支配された労働を善しとしない。この必要に迫られた労働の1つの代表例として、ここでは家事(労働)を取り上げたい。家事は「はてしない反復のいとなみ」(鷲田, 2011) であるという特徴を持つ。一方で料理、洗濯、掃除といった労働は日々の生活に必要不可欠である。近年、外食、衣服のクリーニング、ハウスクリーニングといった、家事のアウトソーシングサービス(を提供する企業)が増えている。これは先に述べた「必要からの自由志向」と類似している。

 だがこの変化の方向性はいくつかの批判を受けている。鷲田は調理の代行は「危うい」と指摘するが、その理由は、調理は「人間がじぶんが生き物であることを思い知らされる数少ない機会」であり、「わたしたちがいかに自然と折り合いをつけつつ生きていくかが問われる現場」(鷲田, 2011) であるからだ。またアレントも「生命を通じて人間は他のすべての生きた有機体と依然として結びついている」が、今やその「最後の絆を断ち切るために大いに努力している」(Arendt, 1958) と警鐘を鳴らす。人間も生き物の一種であり、ゆえに肉体の必要に支配されているが、一方でその事実は人間という存在の1つの特徴、あるいは「条件」(Arendt, 1958) でもある。この条件(制約)から解放されたとき、「人間らしさ」を保つことができるのか、慎重に考える必要がある。

 

 では古代ギリシャの哲学者たちが理想とした生活とは、どのようなものだったのか。それは「外界という絶え間なく荒れ狂う嵐の海洋からのがれ、独自の魂の奥底に引きこもり、変化を回避して不変の自分 (identity) 探しに没頭すること」(Tilgher, 1929) である。アレントの言葉を借りれば、「一切の外部的なことがらから解放」され、「永遠なる事物の探究と観照に捧げられる哲学者の生活」、すなわち「観照的生活」のみが「唯一の真に自由な生活様式として残った」(Arendt, 1958)。「財産や身体にかかわる善が望ましいものであるのは、もともと精神のために役立つかぎりにおいて」(Aristoteles) であり、労働は手段としての有用性しか認められていなかった。そしてアレントの主張によれば、「伝統的ヒエラルキーにおける観照の圧倒的な重みのために、<活動的生活>それ自体の内部の区別と明確な分節が曖昧となった」(Arendt, 1958)。彼女の言う<活動的生活>は労働 (labor)、仕事 (work)、活動 (action) から成るが、ギリシャの哲学者がその区別に焦点を当てることはなく、相対的に低く評価された労働や仕事に関心が向けられることはほとんどなかった。

 労働から解放された人間は猫のような日々を過ごすようになるのではないか、といった趣旨のことを以前何かの本で目にした。彼らはいつも陽だまりでまったりしているように見えるし、また何か思索に耽っているようにも見える。もちろん鼠と必死の格闘を繰り広げているシーンもあるのだろう。だが私たちが普段目にする猫たちは悠々自適に振る舞い、毎日何かに追われるように動き回る人からすれば羨ましいものだ。だが一方で時間的余裕(暇)を満喫するにも徳、あるいは技術が必要となる。これはアリストテレスも指摘するところであり、彼は「忙事のためには勇気と忍耐が必要であるが、閑事のためには愛知 [哲学] が必要である」(Aristoteles) と述べている。暇=退屈とならないように、『暇と退屈の倫理学』を暇にまかせて読み、「閑事」のうまい過ごし方について思索に耽るのも一計である。

 

(2) ヘシオドス―労働の「しんどさ」=「やりがい」

 古代ギリシャにも労働を肯定的に論じていた人はいた。それがヘシオドスである。彼は「ギリシア人としてはまったく異例」(Arendt, 1958) である。では彼は具体的にどんな考え方を持っていたのだろうか。まず『仕事と日』から、いくつかの文章を紹介したい。

 

・「人間は労働によって家畜もふえ、裕福にもなる、また働くことでいっそう神々に愛されもする」

・「労働は決して恥ではない、働かぬことこそ恥なのだ」

・「働くに如くはない、つまりはお前の浅はかな心を、他人の財産狙いから仕事に向けかえ、わしの教えるように、生計を立てることに専念するということじゃ」

 

 いかがだろうか。ヘシオドスは「『飢え』は怠惰な人間に、常に必ずつきまとう恰好の伴侶なのだ」と述べる。飢え、あるいは貧しいことは「悪しきこと」だと彼は考えるが、「悪しきことはいくらでも、しかもたやすく手に入る、それに通ずる道は平らかであり、しかもすぐ身近に住む」のである (Hesiod)。つまり怠けていることは楽だが、それを続ければ飢えという悲惨な状況にたちまちにして陥ってしまう。当時の労働とは牧畜を含む農業(農事)であり、怠惰であるとは季節に応じた仕事(例:種まき、収穫)に精を出さないということを指す。逆に「時を違えず」労働(農作業)に勤しめば、「屋敷の内に命の糧を豊かに貯え」、「飢えを防ぐ」ことができるのだ (Hesiod)。この場合の労働は「生計を立てる」(Hesiod) ことを主眼としており、飽食や浪費といったものとは一線を画す。お腹がいっぱいになればそれで満足なのだ。そして家に豊かに貯えられた穀物、すなわち富には「栄位と名誉とが伴う」(Hesiod)。

 ここで問題となるのは農作業が「きつい」ということだ。自然という人間にはコントロールできない力に左右され、連日の力仕事は体に応える。この点について、ヘシオドスは「神々が人間の命の糧を隠しておられる」と述べ、これは人間の原罪に対する神の試練だと解釈する。「不死の神々は、優れて善きことの前に汗をお据えなされた、それに達する道は遠くかつ急な坂で、始めはことに凸凹がはなはだしいが、頂上に到れば、後は歩きやすくなる」(Hesiod)。つまり神は人間を試しているのだ。ヘシオドスが「神々が人間に季節に応じてお示しになった仕事」、あるいは「いかなる仕事についても万事時を違えぬように心掛けねばならぬ」と述べることから分かるように、彼のいう神は自然(「季節」「時」)と対応している。すなわち自然の猛威に屈せず、汗水たらして労働することが、神の試練に応えることであり、ゆえに働くことでいっそう神に愛されるのである。アリストテレスなどの古代ギリシャの哲学者は労働を日々の生活から取り除こうとした。しかしヘシオドスは労働のしんどさ(「汗」、「坂」、「凸凹」)を「やりがい」と解釈し、それをやり遂げたときの喜びや豊かさを高く評価したのだった。

 

参考文献

・Arendt, H. (1958). The human condition. University of Chicago Press. 邦訳, ハンナ・アレント (1994)『人間の条件』志水速雄 訳, 筑摩書房.

Aristoteles 底本:Ross, W. D. (1957). Aristotelis politica. 邦訳, アリストテレス (2009)『政治学』北嶋美雪, 松居正俊, 尼ヶ崎徳一, 田中美知太郎, 津村寛二 訳, 中央公論新社. 邦訳, アリストテレス (2001)『政治学』牛田徳子 訳, 京都大学学術出版会.

・Hesiod 底本:West, M. L. (1978). Hesiod, works and days. Oxford. 邦訳, ヘーシオドス (1986)『仕事と日』松平千秋 訳, 岩波書店.

國分功一郎 (2011)『暇と退屈の倫理学朝日出版社.

・Tilgher, A. (1929). Homo faber. Roma: Libreria di Scienze e Lettere. 邦訳, アドリアーノ・ティゲル (2009)『ホモ・ファーベル』小原耕一, 村上桂子 訳, 社会評論社.

鷲田清一 (2011)『だれのための仕事』講談社.