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OWLの思考

坂 / 雲 / 経営学 / 社会学 / 労働観 / work-nonwork balance / HR Tech

仕事雑感

  • はじめに

 企業で働く従業員は日々の仕事に埋没・適応しているため、今の状態に慣れてしまい思考の枠組みが固定化していると感じる。それを仕事から少し離れた視点から考え直してみたい。佐伯 (2014) は学問を職業とする人には「自分は何を対象としてどのような意思をもって学問に対しているのか」という緊張感や「自覚的な問いかけ」が必要であり、町外れから町を眺める「高等遊民」あるいは「変人」として「町衆へ何かを還元する義務」があると述べる。外部の視点から素朴に素直に仕事を見つめることで、仕事 (work) と仕事以外 (nonwork) の日々の生活との相互作用 (interaction) のリアリティに迫りたい。

 

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(上の坂は先日撮影した東京都文京区小石川付近の「吹上坂」。歩道のタイルが美しい。実は道の先に新宿のドコモタワーがうっすら見える。) 

 

  • 制約としての仕事の効用

 まず1つ新たな視点を導入したい。それは仕事という一定の時間的・空間的な制約があることで、それがスパイスとなって日々の生活に適度な緊張感やリズムが生まれ、毎日が豊かになるということだ。高橋 (2007) は人間の能力には限界があるとしたうえで、合理的な選択を行うためには選択の幅を狭めることが必要で、「選択の幅を狭めていくためには、組織に所属すること自体が重要になる」と述べている。組織の状況定義を受け入れることで、環境の多義性が削減され意思決定が容易になる。

 現代は「自由」ということを至上の価値の1つにしているところがあるので、不自由をもたらす「制約」は嫌われ者だろう。だが本当に自由になって、日々はより良くになったのだろうか。少し変な例だが、以前ネットの記事で「なぜ猫は箱に入るのか」というものがあった。そこでは「隠れるという行動は、あらゆる種にとって環境変化とストレス要因に対処するための行動戦略」であると紹介されていた。

(http://wired.jp/2015/03/08/cat-loves-box/)

 自分に引き付けて述べると、大学生の多くが感じていることかもしれないが、自由時間が多いということ、好きな研究をしてよいということは、実は結構大変である。つまり全てを自己決定しなければならない。下宿生活もそうである。実家であれば母親がいちいち口出しをして鬱陶しいと感じていたかもしれないが、いざ1人暮らしを始めると、何時に起きても、何時に学校に行っても、何を食べても、ほとんどすべてが自由である。自己決定「できる(can)」幅が広がり自由になったとも言えるが、「しなければならない(must)」という不安を抱えるようになったとも言える。これに対して、出社や退社の時間が決まっており、また仕事の中身もそれなりに決まっているという制約のある状態は気楽ではなかろうか。Ciulla (2000) も「仕事がなければ、私たちは何をするか、何になるか、無限の選択肢と向き合うことになる」が、「仕事があれば、毎日何をするべきかが明らかになる」と述べる。

 このように人間は自由から逃げたい部分がある。これは特異な例かもしれないが、私は自由な時間が多すぎると自分の内側に目が向いて、自己の存在がよく分からなくなることがある。人間の存在は本質的に不安定で不確かなのだから、いくら突き詰めて考えても「絶対安心の境地」(松下, 1973) に至ることはない。そのような自意識の鋭い視線から自己を「隠す」ものとして、制約の効用がある。「忙しい」の「忙」という字は心を亡くすと書くが、亡くすことも時には必要である。ぼーっとして星空を見ているときの何とも言えない落ち着きにも似ている。日々の生活に制約を与えるものとしての仕事の効用はありそうだ。

 もちろん無批判に仕事中毒 (workaholic) になってはいけない。それでは自分の心の声に耳を塞いで、大きなものに流されているだけである。そうではなくて、自分が仕事に求めることと最低限必要なお金の量を明確にした上で、どれだけの時間を仕事に割けるかという考え方をすべきだ。アメリカのIT企業Googleには「20%ルール」というのがあるが、それは勤務時間の20%を社員に与え、「自分の仕事や自分の会社をみずから形づくるというめったにない自由を与えている」(Laszlo, 2015)。没頭しすぎず、かといって自由すぎない丁度良いバランスは人それぞれに違っている。そうした自分なりのカスタムメイドのバランスを考えることが必要であろう。

 

 世界の人々がますます豊かになっていく結果として、自分ひとりの生命維持の必要にそれほど迫られず、「どうしても働かねばならない強迫感が希薄化」(橘木, 2011) していくことが想定される。結果的に働く意味を改めて問い、仕事について悩む人々が増えているのだろう。それに対するアドバイスとして、やりたいことや好きなことを仕事にすることを奨励するものがある。だがそれは「仕事に対する過剰なまでの意味付け」(Ciulla, 2000) ではないだろうか。「工業社会の文化が出現するに及んで、人は仕事というものを自分自身のイメージの中心に置く」(鷲田, 2011) ようになり、「充実感」や「社会的地位」の多くを仕事に求め、さらに「アイデンティティの主たる拠り所」とまでなっている (Ciulla, 2000)。「充実感や、人生の意味を感じることができるような、人間として面白いと感じる仕事」(Ciulla, 2000) を求めるのは当然だが、仕事における自己実現に過度にこだわり、そこに自分のアイデンティティを依存するのは危険である。なぜなら仕事は働く人のためだけのものではなく、財・サービスの提供相手である顧客や資金提供者である株主のためのものでもあるからだ。したがって働く個人の裁量(自己実現できる幅)は必然的に制限される。だがこの一定の不自由さは上でも述べたように必然であるし、必要ですらある。しかし仕事での自己実現を過度に追い求めれば、March & Simon (1993) が「現実と個人がもつ自我理想の乖離から不満足は生まれる」と指摘するように、理想と現実のギャップに苦しみ不満を感じるだろう。例えばフラットな組織が注目されていることから分かるように、企業内の上下関係は敬遠されがちだ。だがそれは「最低限、上司と部下といった上下関係の中で行動することを受け入れる必要があるということだけ」(高橋, 2007) で、上司への絶対服従ではない。「1人の上司が直接、有効に管理・統制できる部下の数」、つまり「管理の幅 (span of management) には限界があり、そのために、大規模な組織では階層構造をとらざるをえなくなる」(高橋, 2007) のだ。

 またGoogleの人事担当副社長であるラズロ・ボックは「自由は絶対的なものではない。チームや組織の一員であるということは、ある程度は個人の自由をあきらめ、ひとりよりチームのほうが大きな成果を達成できる可能性を受け入れるということだ」(Laszlo, 2015) と述べる。またサイボウズ社長の青野慶久も、多様性のある組織を機能させるためには、説明責任(理想を伝える責任)、質問責任(意思決定を説明する責任)、そして理想が叶わないことや批判があってもそれを「受け入れる責任」が必要だと説く (青野, 2015)。常に思い通りにいくわけではないので、ある程度の我慢が必要である。なおこの理想とは「自分がどのように働きたいのか、そこから何を得たいのか」(青野, 2015) を指す。両者の意見には「受け入れる」という言葉が共通しているが、そのように長期的な視点に立ってある程度の我慢をすることも必要である。それではどうすれば社員は「受け入れる」、あるいは我慢することができるのか、経営理念への共感、組織コミットメント (OC)、などの視点から今後考察を深めていきたい。

 

参考文献

青野慶久 (2015)『チームのことだけ、考えた。』ダイヤモンド社.

Ciulla, J. B. (2000). The working life. Crown Publishing. 邦訳, ジョアン・キウーラ (2003)『仕事の裏切り』中嶋愛 訳, 翔泳社.

Laszlo, B. (2015). Work rules. Twelve. 邦訳, ラズロ・ボック (2015)『ワーク・ルールズ!』鬼澤忍, 矢羽野薫 訳, 東洋経済新報社.

松下幸之助 (1973)『商売心得帖』PHP研究所.

March, J. G. & Simon, H. A. (1993). Organizations. (2nd ed.). Cambridge, MA: Blackwell. 邦訳, ジェームズ・G・マーチ, ハーバート・A・サイモン (2014)『オーガニゼーションズ』高橋伸夫 訳, ダイヤモンド社.

佐伯啓思 (2014)『学問の力』筑摩書房.

橘木俊詔 (2011)『いま、働くということ』ミネルヴァ書房.

高橋伸夫 (2007)『コア・テキスト 経営学入門』新世社.

鷲田清一 (2011)『だれのための仕事』講談社.