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仕事観の変遷④(マルクス)―【前編】労働の“対象化”と“疎外”

 古典を紐解くことで仕事観の変遷を概観する試みも第4回目となった。かなりお堅い内容だと思うが、それなりに多くの方にお読みいただいているようで、「仕事」や「働く」ということに対する世間の関心の高さがうかがえる。先日も某所で「仕事観の変遷①(古代ギリシャ)―労働を取り除く or 積極的に評価する」に基づいて話題提供をさせていただいたが、その後の議論はかなり盛り上がったように思う。

 以下ではマルクスの初期の著作である『経済学・哲学草稿』に依拠して、彼の労働についての考え方を概観したい。またマルクスの『資本論』解説という位置づけの宇野弘蔵著『価値論』も適宜参照する。皆様が自分なりの仕事観を練り上げる一助になれば幸いである。

  1.  資本家と労働者の権力関係

 まず彼はアダム・スミスなどの国民経済学者の説として、「唯一、労働によってこそ人間は自然生産物の価値を高めることができる」(Marx, 1844) という考え方を紹介している。つまり労働が付加価値、あるいは富の源泉である、という考え方であり、労働(人間の働き)の力を称賛するものだ。これは前回(仕事観の変遷③(産業革命期)―「野生人」と「ミニマリスト」の生き方と働き方)紹介したモンテスキューヴォルテールといった人々の流れを継承している。しかし『経済学・哲学草稿』で描かれる労働には、暗く、辛そうなイメージが伴う。それはなぜだろうか。

 

  • 労働の“対象化”―「肉体的・精神的エネルギーをのびのびと外に開く」

 マルクスは「労働の生産物は、労働が対象のうちに固定されて物となった姿であり、労働の対象化だ」(Marx, 1844) と考えた。その「対象」とは「自然」であり、「自然こそ、労働が現実化する素材であり、労働が力を発揮する素材であり、また、生産の出発点とも媒介ともなる素材」だと彼は考えた (Marx, 1844)。つまり生産とは、自然という素材(例:土地、木材、金属)を自由に使って、そこに自分のエネルギー(例:時間、努力)を注ぎ込み、何かをつくり出すプロセスであるといえる。

 宇野 (1996) は「すべての労働生産物は、……一様に一定量の労働を吸収したものとしてみることができる」と述べており、労働生産物は、労働力というエネルギーが詰まった労働の”缶詰”のようなものだと考えられる。また生産工程で用いられる機械には「過去の労働」(宇野, 1996) が蓄えられており、まるで乾電池のように、蓄えられたエネルギーを放出して生産を加速させる。

 このような自然との自由な交流、マルクスの言葉を借りれば「肉体的・精神的エネルギーをのびのびと外に開く」(Marx, 1844) ようなプロセスを経て完成した生産物は、自分の思いが詰まった“分身”と言えるだろう。マルクスの表現を借りれば、「自分の作り出した世界のうちに自分の姿を見てとる」(Marx, 1844) のである。

 『下町ロケット』という小説がある。大田区の中小企業の社長(元ロケット研究者)が、独自に取得した革新的な特許を用いて開発したロケットエンジンのバルブを、国産ロケットを製造する大企業に納入するまでの話だ。その中で社長が特許について「手塩にかけた子供のようなものだ」と述べている。また会社の資金繰りが悪化した際の、20億円で特許を買い取ろうという競合他社からの提案に対しても、「金の問題で割り切れるほど、単純な話ではなかった。……新しい技術への拘り、情熱。特許はその結晶だ」と売却を拒否する (池井戸, 2010)。特許は「手塩にかけた子供のようなもの」であり、自分たちのこだわりや情熱の「結晶」であるという考え方は、先に紹介した“自由な”生産をまさに示していると言えるだろう。

 

  • 労働の“疎外”―「肉体をすりへらし、精神を荒廃させる」

 だが当時の労働者たちを観察したマルクスは、労働者が生産物から疎外されている、という現実に気づいた。彼はその原因が「私有財産」という考え方の登場にある、と考えた。以前は誰もが自由に使っていた素材(例:土地)に対して、一部の人々(例:地主)が「それは自分のものだ!」と主張し、私有・独占しはじめたのだ。それらの素材を、彼らが自らの労働によって生み出したわけではないにもかかわらず、である。

 これに対して、生命維持の必要に迫られ、労働しようとしているものの、素材を取り上げられてしまった労働者たちは、たくさんのもの(例:資本へのアクセス)を持つ一部の人々から素材を使わせてもらう、あるいは彼らの工場で働かせてもらう(雇ってもらう)しかない。このようにして多くの人々が雇用労働者となった。宇野 (1996) の表現を借りれば、彼らは「二重の意味で自由」なのである。すなわち、①「かれの労働力を自由に商品として売りうる」、②「労働力以外には商品として売りうるなにものをも所有しない」、のである (宇野, 1996)。したがって、労働者は生きていくために自らの労働力を「つねに売らないではいられない」(Marx, 1844) という弱い立場に置かれている。

 以上のように、独占によって「持ち主(貸し主)>借り手」というパワーバランスが形成される。生産に巨大な設備(例:ベルトコンベアを用いた生産ライン)を必要とする工業分野で、特に顕著に、資本を蓄えた一部の人々が権力 (power) を握ることとなる。

 

  • 雇主 (master) とサーバント (servant) の権威関係

 ここで森 (1988) の議論を紹介したい。彼は「雇用関係の多様な側面の中でも特に権威関係に着目した」(森, 1988)。雇用関係は、イギリスの関連する法律において ”relation of master and servant” と記されていることから分かるように、雇主の支配とサーバントの服従という権威関係を内包している。「平等で自由な私的相互の契約」であるはずの雇用契約から権威関係が発生する理由について、その「自由」が意味するところは、封建身分(領主と農奴)とは異なり、“誰のサーバントになるか”という身分選択の自由を与えられているだけであり、契約内容(例:就業規則)の決定についてはほとんど自由がないと述べられている。

 そしてこのような権威関係から生まれる考え方の1つに「雇主はサーバントの労務に財産権をもつ」(森, 1988) というものがある。森 (1988) によればこのような考え方は「直接には領主―農奴関係にその歴史的淵源をもち、さらにさかのぼれば、奴隷主―奴隷関係に及ぶ」とされる。その歴史的起源はいったん脇に置くとして、このような考え方は会社がいったん利益を吸い上げて、給与として再配分するという、今日では当たり前の構図に反映されている。しかし家内生産などの小規模生産が一般的であった時代には、自分で作ったものを自分で売って、その代金は自分で受け取るのが“ふつう”だったと考えられる。その時代と比べて、現代社会では「働く=雇用労働」となっており、「就社」という言葉や雇用労働者が約9割であるという統計からも明らかなように、誰のもとで働くかを選ぶことが“ふつう”になっている。

 やや話が逸れたが、イギリス産業革命期において「雇用関係の実際においてはサーバントは単なる受動的な存在ではなく、自らの尊厳のためには雇主と対峙することも辞さなかった」(森, 1988) ようだ。当時の熟練労働者は仕事に関する知識を独占していたため、雇主が彼らの仕事内容に口出しをすることは難しかったと森は分析している。しかしテイラーの科学的管理法の登場によって、職務は細かく分析され、雇主は労働者への指揮命令権を確立した。本章の趣旨とは直接関係しないが、雇主 (master) が個人から法人(会社)へと変化したことも指摘しておく必要があるだろう。

 

  • 労働によって自分のエネルギーが吸い取られる

 このような経緯で「労働と労働生産物にたいする支配」(Marx, 1844) を手にした貸し主(資本家)は、生産物に対して所有権を主張し、生産物の一部を取り上げる(例:年貢)、あるいは一部しか分配しないという行動にでる。すなわち、彼らに支払う賃金を「家畜なみの生存に見合う最低限」(Marx, 1844) に抑えたのだ。というのも、資本家にとって労働者に支払う賃金とは「車輪を回転させるために使われる油などとまったく同じ意味をもっている」ので、「生産用具」である労働者が死なない程度に健康を保てれば十分だ、と考えたからだ (Marx, 1844)。

 労働者は生産物を取り上げられることで、エネルギーを注ぎ込んだ生産物とのつながりを断たれる。結果として労働者と労働生産物との関係はよそよそしいものとなり、労働によって自分のエネルギーが吸い取られるという事態を招く。

 そしてお金を得ることを主眼に生産が行われるとき、もはやその生産物はお金を得るためのただの手段でしかない。生産物は「生産(労働)→ 生産物 → お金(賃金)→ 消費」というプロセスの媒介物にすぎなくなる。このような状況では「労働は消費への回り道」(今村, 1998) となり、「労働の疎外の必然の帰結たる賃金のもとでは、労働は自己目的ではなく、賃金に仕えるもの」(Marx, 1844) となる。お金そのものを扱うことで、手っ取り早くお金を手に入れることのできる金融業が人気を集めているのもうなずける気もする。

 労働者間の分業によって生産性が向上することは周知の事実である。しかし生産性向上によって蓄積された富のうち、労働者に還元されるのはごくわずかで、一部の資本家がますます富と権力を握り、格差が拡大することになる。このように「労働は資本を蓄積し、社会を住みよくするものなのに、その労働が労働者をますます資本家に従属させ、激しい競争へと投げこみ、過剰労働へとかりたてる」(Marx, 1844) という矛盾をはらんだ構図をマルクスは描き出している。

 

  • 小括

 マルクスが生きていた時代と比べて社会の状況は変化しており、その議論はそのまま現代に当てはまることばかりではない。しかしマルクスの分析に基づく労働へのマイナスイメージが未だに人々のあいだに広く共有されていることもまた事実である。

 後編ではマルクスが注目した「パワーを持つ資本家(雇用主)と弱い立場に置かれた労働者」という現実が変化しつつある兆候(シェアリング・エコノミーとメイカーズ)を取り上げたい。

 

後編 (under construction)

 

参考文献

池井戸潤 (2010)『下町ロケット小学館.

今村仁司 (1998)『近代の労働観』岩波書店.

・Marx, K. (1844). Okonomisch-philisophische manuskripte. 邦訳, カール・マルクス (2010)『経済学・哲学草稿』長谷川宏 訳, 光文社.

・森建資 (1988)『雇用関係の生成―イギリス労働政策史序説』木鐸社.

宇野弘蔵 (1996)『価値論』こぶし書房.

仕事観の変遷③(産業革命期)―「野生人」と「ミニマリスト」の生き方と働き方

 仕事観の変遷シリーズの第3回目である。第1回は「仕事観の変遷①(古代ギリシャ)―労働を取り除く or 積極的に評価する」、第2回は「仕事観の変遷②(キリスト教社会)―仕事観の背景にある宗教」と題して、過去の仕事観をひもとくことで、現代、あるいは未来の仕事観を考えてきた。今回はルソー (Jean-Jacques Rousseau) の『人間不平等起源論』、サーリンズの『石器時代の経済学』などを参照しつつ、「ミニマリスト」の質素な生き方と自由な働き方を検討したい。

 

  • 産業革命による驚くべき生産性向上と、それに伴う技術や人間のもつ力への称賛

 ヨーロッパ世界では1760年ごろから1830年代にかけて「産業革命」と呼ばれる大きな変化が起きた。以下では綿織物工業の分野で起きた技術革新に少し触れる。1733年にジョン・ケイが飛び杼 (flying shuttle) を発明し、手で杼を動かす必要がなくなり、綿織物の生産が高速化された。その後、ハーグリーブスによるジェニー紡績機(1764年)、アークライトによる水力紡績機(1771年)、クロンプトンによるミュール紡績機(1779年)、カートライトによる力織機(1785年)の発明と続く。そして1830年にはリチャード・ロバーツによって紡績は完全に自動化された。

 アリストテレスが「もしどんな道具も命令されてか、事前に察知してか、自分に課せられた仕事をやりとげることができたなら―……織機の梭がみずから左右に動き、キタラ琴の撥がみずからかき鳴らすことができたなら―、棟梁は手伝いの職人などなにも要らないし、主人は奴隷などなにも要らないことだろう」(Aristoteles) と言っているが、それが現実のものとなった。すなわち、自動織機の発明によって、従来よりもはるかに少ない人数でたくさんの綿織物を生産することができるようになった。以前の生産方式のまま生産量を増やすには労働投入を増やすしかないが、労働力人口を短期的に増やすことは不可能であり、生産量は人口による制約を受けていた。しかし「産業革命」によって(労働)生産性が飛躍的に向上し、昨日と同じ人数で、昨日よりも多く生産できるようになったのだ。これはまさに“革命的”な出来事であっただろう。人々は驚くべき物質的豊かさを経験し、この先も社会が進歩(上昇・拡大)していくことを大いに期待しただろう。

 

  • “進歩”を礼賛する人々とそれに対立するルソー

 この時代に技術、あるいは人間の知恵・情熱・努力がもつ力を称賛する考え方が流行したのは、当然のことだ。Tilgher (1929) によれば、モンテスキューは「労働に対する熱意、豊かになりたいという情熱、贅沢への強い願望を奨励」する進歩の立場に立った。またヴォルテールも同様の立場から、進歩を「人間の忍耐強い、不屈の、辛い、厳しい努力の成果」だと評価した (Tilgher, 1929)。百科全書派と呼ばれる人々は「進歩を支持」し、「彼らは労働を、学問とともに人類の進歩の最大の立役者であると考えた」(Tilgher, 1929)。まとめると、労働(人間の働き)が進歩、すなわち物質的な豊かさを実現した最大の功労者であり、それゆえに称賛されるべき、という考え方がもてはやされていた。

 この時代に、そういった考え方と逆行するような視点を持っていたのがルソー(Jean-Jacques Rousseau:1712-1778年)である。ルソーは進歩によって生み出されたのは、無用なもの、言い換えると“ガラクタ”であると考えた。彼は主著『人間不平等起源論』において、「初めて衣服や住宅を作った人は、じつは無用なものを発明したのだということは、どう考えても明らか」(Rousseau, 1755) と批判している。また進歩を追い求める過程で、苦しみもまた生み出していることを指摘している。彼は働きすぎ、美食の食べ過ぎによる消化不良、夜更かし、不摂生などを例に挙げ、「自然がわたしたちに定めている簡素で、むらがなく、孤独な生活をしていれば、こうした苦しみはほとんど避けられたはず」であり、「わたしたちを苦しめる悪の多くは、わたしたちがみずから作りだしたもの」であると述べる (Rousseau, 1755)。

 「簡素で、むらがなく、孤独な生活」としてよく取り上げられるのが『ロビンソン・クルーソー』である。イギリス人ロビンソンは航海のおもしろさに魅了され、何度も危険な目に遭いながらも、航海に出つづけるが、あるときひどい嵐に出くわし、孤島に1人で放り出されてしまう。だが彼はそこでの質素な暮らしに満足を感じている。「わたしにはじゅうぶんな食べ物があり、そのほかの必要品もある。さらにそれ以上のものがなんの役に立つのか」と語り、「強欲という悪徳」を脱した (Defoe, 1719)。孤島に身一つで放り出されたことで彼の暮らしはリセットされ、改めて必要なものとは何なのかを問い直している。

 

  • 「野生人」という理想

 ルソーは『人間不平等起源論』において、原初の状態を想像することから出発し、その状態と現代の様子を比較することで、不平等といった悪が生み出される過程を描き出している。「人類が実現したあらゆる進歩は、人類を原初的な状態からたえず遠ざけつづけている」や「かつては自由で独立していた人間」(Rousseau, 1755) という表現からも、「野生人」の暮らしを望ましいと考えているようだ。そこで以下ではサーリンズの『石器時代の経済学』も適宜参照しつつ、野生人、あるいは狩猟採集民の生き方を概観したい。

 まず物質的欲求について、狩猟採集民は「控え目」であり、「生計だけで満足」している (Sahlins, 1972)。この理由についてサーリンズは、動き回って狩猟や採集を行う「遊動生活」を営む人々にとって、「『富は重荷』にほかならない」ことを指摘している。つまり「可動性と所有は、矛盾関係」(Sahlins, 1972) にあり、また豊富な食糧がその辺に転がっているのであれば、わざわざ手元に持っておく必要性もない。このように“有限”の物質的欲望をもつ狩猟採集民は、労働も「不規則」で「きまぐれ」(Sahlins, 1972) であって、言うなればお腹がすいたらあたりから取ってくればよいのである。彼らは「ちょっと働いて必要なだけ手にいれると、ちょっと休むので、暇な時間がたいへんに多い」(Sahlins, 1972) ようだ。ではその暇な時間(余暇)は何をしているかというと、主に寝ている。というのも狩りは獲物が出現すると突発的に始まるので、常にそれに備えておく必要があるからだ。このように彼らの労働と余暇は連続している。

 

 では現代人はどうだろうか。社会を形成した人間は、常に他者を意識し、他者の評価を求める生活を送るようになった。かつて物質的欲求は満腹になればおさまったが、他者に囲まれて生きる人間は、見せびらかすために、物を絶えず買いつづけなければならない。なぜなら、次々と新しいモノが市場に登場する現代社会において、物がもつ記号としての価値は非常に速いスピードで低下するからだ。この無限の欲求に駆り立てられた人々は、勤勉に働くことに邁進する。鷲田 (2011) はこの様子を「くそまじめ」や「がちがち」という言葉で言い表した。それに対して余暇は「快楽一色」となり、労働と余暇は「両極化」した (鷲田, 2011)。

 このような現状を嘆く人々はどのような行動に出たのだろうか。その1つの例として「ミニマリスト」に注目しよう。彼らのライフスタイルは、狩猟採集民のそれとよく似て質素である。まず彼らはモノを手放すことで“必要”を見極めようとする。かつて「断捨離」が流行った時期があったが、それと共通するところが多い。この動機は人それぞれであろうが、例えば震災で物がリセットされた、引っ越しで物を処分した、あるいはたくさんの物に囲まれた親の暮らしとその不満を肌で感じてきた、などが挙げられる。彼らの部屋を写真やテレビ等で目にしたことのある人はご存知のように、その部屋には物がほとんどない。彼らは服や車をレンタル、あるいはシェアし、その他の物も必要になったらコンビニやAmazonを利用して街(家の外)に取りに行く。この考え方は自然資源の豊富さを信頼する狩猟採集民と似ている。「自分が生きていくのにどうしても必要なお金」、すなわち「ミニマムライフコスト」(佐々木, 2015) を把握し、「市場での自由を制限」した彼らは、「どこで働くか、どれだけ働くかをもっと余裕を持って決められる」(Ciulla, 2000) ようになる。例えば、先に引用した『ぼくたちに、ものモノは必要ない。』の著者でミニマリストの佐々木氏は、「手取り10万円もあれば楽しく暮らしていける」と気づき、給料は下がるが、よりおもしろい仕事ができそうな別の出版社に転職した。収入制約が弱まれば、職場選びの幅が広がるだろう。これはライフスタイルの変化によって個人が選ぶ働き方が変わる、ということの1つの好例であろう。

 

 まず1つ目は、このように“必要”を見極めた人々はどのような働き方を望むのかということだ。先に引用した「どこで働くか、どれだけ働くかをもっと余裕を持って決められる」(Ciulla, 2000) という指摘のように、働く場所 (place) と時間 (time) の選択の幅が広がることになる。ここでは時間 (time) の自由度を増した働き方に触れる。組織に属さない働き方として「フリーランス」を、組織に属する働き方として「時間限定正社員」を挙げよう。彼らの働き方は「きまぐれ」と「くそまじめ」のあいだである。というのも、フリーランスはその自由さが強調されるが、彼らにもクライアントがいて、納期も設定されている。その意味で完全に「きまぐれ」では仕事にならない。それでも自分の必要な分だけ稼げれば、そこで仕事を終了することができる。また時間限定正社員とは、俗に「時短勤務」と呼ばれるものと同じで、普通は9時から17時の7時間(昼休み1時間を除く)働くところ、例えば9時から15時の5時間だけ働くという働き方だ。こうした働き方を希望する人が今後増えていくかもしれない。

 次に2つ目だが、フリーランスや時間限定正社員として働くようになると、以前に比べて時間的余裕(余暇)が生まれることになる。その時間をどう使って行くかが問題である。國分 (2011) は「既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供」する「文化産業」によって、「暇が搾取されている」と指摘する。“暇”が生まれても“退屈”していては意味がない。暇を楽しむ訓練が必要となる。副業、趣味、勉強会、社会人のサークル活動等々、時間の使い方を自分で工夫することが求められる。

 3つ目は最近よく言われる、消費の対象が“モノ”から“コト”に変わっている、という点についてだ。ミニマリストは確かにモノの消費が少ないが、コトの消費が少ないわけではない。先に登場した佐々木氏も「自分のための『モノ』メインにお金を使っていたのを、『経験』や『人』のために使う、新しい取り組みへの『投資』のために使う」(佐々木, 2015) と述べている。具体的には、映画、音楽、ゲーム、アニメといったデジタルコンテンツの消費や、カフェ巡り、聖地巡礼、RRPG(例:リアル脱出ゲーム)、テーマパーク(例:USJ、ディズニー)といったリアルコンテンツ(体験)消費のがある。では次は“コトの記号的消費”が起こるのではないだろうか。つまり、「どこどこに行った」「なになにを見た」という体験をアピール(例:Twitterに写真・動画を投稿)するようになるのではないだろうか。その場合、コトの消費は他者の目を気にした“だけ”のものとなり、以前と同じように「がちがち」の労働に向かっていくのではないだろうか。

 

 以上をまとめるとこのような表になる。(2017.3.31 画像変えました)

 

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参考文献

Aristoteles 底本:Ross, W. D. (1957). Aristotelis politica. 邦訳, アリストテレス (2009)『政治学』北嶋美雪, 松居正俊, 尼ヶ崎徳一, 田中美知太郎, 津村寛二 訳, 中央公論新社. 邦訳, アリストテレス (2001)『政治学』牛田徳子 訳, 京都大学学術出版会.

・Ciulla, J. B. (2000). The working life. The Crown Publishing. 邦訳, ジョアン・キウーラ (2003)『仕事の裏切り』中嶋愛 訳, 翔泳社.

今村仁司 (1998)『近代の労働観』岩波書店.

國分功一郎 (2011)『暇と退屈の倫理学朝日出版社.

・Rousseau, J. J. (1755). Discours sur l’origine et les fondements de l’inegalite. Parmi les Hommes. 邦訳, ジャン=ジャック・ルソー (2008)『人間不平等起源論』中山元 訳, 光文社.

・Sahlins, M. (1972). Stone age economics. Aldine Publishing Co. 邦訳, M・サーリンズ (1984)『石器時代の経済学』山内昶 訳, 法政大学出版局.

・佐々木典士 (2015)『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』ワニブックス.

・Tilgher, A. (1929). Homo faber. Roma: Libreria di Scienze e Lettere. 邦訳, アドリアーノ・ティゲル (2009)『ホモ・ファーベル』小原耕一, 村上桂子 訳, 社会評論社.

鷲田清一 (2011)『だれのための仕事』講談社.

日本の現代社会と他者―比較によって揺さぶられるという経験

 今回は趣向を変えて、私が以前発表した卒業論文の紹介を行いたい。その動機は論文で行った現実分析が現代社会を生きる人々、特に私と同世代の若者に広く共感されるのではないか、またその分析が人々の日々の生活に役立つのではないか、と実感したからである。以下では発表時に用いたスライドを適宜示しつつ、社会学の専門知識がない人にも分かるように、できる限り平易に説明を試みたい。

 要旨は以下である。「本研究では遥か60年前にアメリカの社会学者デイヴィッド・リースマンが指摘した『他人指向型』が支配的になっている日本の現代社会を扱う。そして比較によって自分が大切にしているものが揺さぶられ、違和感を覚えつつも他者に同調する『スライム状態』を取り上げる。その『スライム状態』に伴う違和感(心の痛み、疲れ)の存在を、理論と現実分析の両面から明らかにする。現実分析からはその違和感への2パターンの対処行動もまた明らかになったが、それらは自分『だけ』、あるいは自分たち『だけ』の『世界』の中で自然体で振る舞おうとする『クローズド(閉鎖的)』な姿勢である。最後に『スライム状態』への私が考える処方箋をおまけとして参考までに添えるが、対処法については読者各々の議論と創造力に任せたい。」

 

 まず私が取り上げた現実をうまく言い表した文章を、セネカの短編「心の平静について」(岩波文庫『人生の短さについて 他二篇』より)から引用する。

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 どう感じただろうか。私はこれを読んで「まさにこれだ!」と思った。他者、様々な意見、情報、価値観などと自分を比較することによって、自分が大切にしているもの(例:倹約を大切にすること)に疑いが生じる、ということは私個人も日々経験している。言い換えると比較によって自分が動揺する、あるいは揺さぶられるということだ。「こういった経験は日本の現代社会において広く見られるのではないか」と思った私は、その裏付けを探すために現実分析を行うことにした。

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 ともにアメリカの社会学者であるリースマン (David Riesman:1909-2002) の『孤独な群衆』とマートン (Robert King Merton:1910-2003) の『社会理論と社会構造』を参照した理論分析と、日経新聞の6つの記事を用いた現実分析からは上図のようなことが分かった。

 まず「スライム状態」に伴う心の痛みや疲れが現実分析から確認され、その背景が理論的に説明された。リースマンは社会集団に共通の性格を「社会的性格」と呼んだ。もちろん個々人の性格は多様であるが、その社会(あるいは時代)を生きる人々が共通して持っている特徴があるのではないか、という議論である。彼は行為の指針に注目して「社会的性格」を3つに分類したが、特に重視しているのが「内部指向型」と「他人指向型」の2つである。まず「内部指向型」は自分の内側に「ジャイロスコープ羅針盤)」(Riesman, 1961) を持つ。それは年長の世代、特に親からの厳しいしつけによって与えられ、内面化されたものである。仲間には無関心であり孤立している。それに対して「他人指向型」は周囲にいる他人やマス・メディアに登場する同時代人を指針とするため、その動向に常にレーダーを張り巡らせている。この「他人指向型」が日本の現代社会において支配的であると先に述べたが、その理由として、① 地縁・血縁から切り離される、② 消費社会への転換、③ 内面化されたジャイロスコープに疑念が生じる、④ 企業の大規模化・組織化により分業と協働が必要になる、の4つを私は挙げた。

 次にもう1つの理論であるマートンの「準拠集団」について説明する。

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 上図のように人は何らかの対象(比較対象)と自分を比較し、それに反射させて自己評価を行っている。これが他者比較(社会的比較)の1つの機能である (高田, 2011)。その比較の結果、自分の行動や態度を決める、あるいは修正する。この比較対象の候補の集合を私は「世界」と名付けた。「世界」とは接触を通して、自分の日々の生活や思考を取り巻いているものである。自分が全く知らないものと比較することができないように、比較を行うためには対象について知る必要がある。私の見立てでは、日本の現代社会において、この「世界」の中身(他者、意見、価値観、情報)が多様化・流動化している。例えばテレビの無い時代には、日本から遠く離れたブラジルの事情を知る術はほとんどなかったが、今日ではオリンピックの様子などもリアルタイムで目にすることができる。

 またスマートフォンの普及にも触れる必要がある。スマートフォンは平成22年に9.7%であったのが4年後の平成26年には64.2%と急速に普及している。20代の利用率は94.1%と最も高く、次いで30代が82.2%、10代が68.6%と若い世代での利用が目立っている。PCでのインターネット利用は、1位:オンラインゲーム、2位:情報収集・コンテンツ利用、3位:コミュニケーションであるのに対して、携帯・スマートフォンではコミュニケーションが1位であり、主な利用目的が変化していると言える (総務省, 2014a, b, c)。スマートフォンの普及が意味することは、他者の動向を知るツールが常に身の周り(身近)にあるということだ。そしてPCがまとまった時間に利用され、ネットとリアルが比較的分離されているのに対して、スマートフォンは休憩時間や空き時間といった「すきま時間」に利用され、ネット上の他者やその考え方が日々の生活に溶け込み、それを取り巻くようになっていることが伺える。

 以上のような変化によって、様々なものの見方に触れられるメリットがある反面、多量かつ多様な情報に曝されて、知らないうちにそれらに自分の「世界」(の中身)が覆い尽されていると言えるだろう。

 

 ではこういった特徴を備えた現代社会において、人々は「スライム状態」に起因する違和感にどう対処しているのだろうか。先ほどの図を再掲する。

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 日経新聞社の6つの記事(「疲れずにつながりたい ひそかな人気「匿名」SNS」、「『ぼっち』高校生描いた小説、ベストセラーの理由」、「引き算の世界 (3) 一人満喫『ぼっち派』堂々」、「SNS疲れ? 相手限定アプリで本音の付き合い」、「家族も仲間もいるけど… 1人を満喫『ぼっち族』」、「カップル専用アプリが流行 音楽業界も新市場に注目」といったヘッドラインである)を用いた現実分析からは、図のように2タイプの対処行動が明らかになった。つまり、① 他者を切り捨て、自分「だけ」の世界に閉じこもり、自分を守ろうとする、② 漠然とした他者に区別を設け、自分たち「だけ」の世界では自然体で振る舞おうとする、の2つである。

 6つの記事に加えて、総務省の「社会生活基本調査」からも興味深いことが分かった。それが「家族回帰」である。下表のように、1996年から2011年にかけて、10代で顕著に1人でいる割合が減少し、家族や学校の人と過ごす割合が増えていることがわかる。

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 そして面白いことに「休養・くつろぎ」と「趣味・娯楽」に限定すると、下の表のように10代で顕著に学校の人といる割合が減り、家族といる割合が増えていることがわかった。

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 多様な他者と接する時間が増え、それに伴って「スライム状態」に陥り、疲れを感じているので、せめてくつろぎの時間は信頼できる家族とのんびり過ごしたい、という若い世代が増えていると解釈できるのではないだろうか。

 この2つの対処行動は、自分「だけ」、自分たち「だけ」の世界を志向している点で、「クローズド」という言葉でまとめられる。つまり、限定的で守られた世界では自由に振る舞うということだ。そしてその世界以外では比較によって揺さぶられる、という両極端な状態である。

 

 以上が現実分析であった。しかし「スライム状態」を実体験している私としては、以上の対処行動に納得することはできない。なぜなら守られた世界に逃げ込むだけでは、問題の根本的な解決になっていないからだ。そこで蛇足ではあるが、私が考えた処方箋をおまけとして付け加えたい。

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 まず私が目指すゴールは「他者やその考え方とうまく付き合っていく」ことであり、「他者が全く気にならない」ことではない。どれだけ精神を鍛えても後者は不可能であり、またもし仮にそんな人がいたとしたら傍若無人な人である。うまく付き合っていくためには、オープンな姿勢、あるいはマインドを持って「世界」の中身と向き合い(働きかけ)、それらを整理する必要がある。

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 整理するプロセスを上図に示した。まず「フィットする」もの、例えば、波長が合う(自然と同調する)、肌に合う、性に合う、と表現されるものを切り分ける。「何となく自分に合いそう」と思ったら「フィットする」ものの集合に入れる。しかしある時「やっぱりちょっと違うな…」と思ったら、外に出す。これを繰り返して自分なりの感覚(フィット感)を練り上げ、「世界」の中身との距離感を微調整していく。だがこういった意識的なプロセスでフィルターを作り上げても、その区別を「あっさりとすり抜け」(高橋, 2007)、「世界」の外から飛び込んでくるものとの出会いがある。その体験は「体験選択」と呼ばれるが、ここでは詳しく触れない。関心のある読者は『行為論的思考』(高橋由典 著)のご一読を進める。

 

 以上で論文の紹介を終わります。ご清聴ありがとうございました。

 私の拙い現実分析が日本の現代社会で日々の生活を送る読者の助けになれば、これ以上の喜びはありません。

 

参考文献

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