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OWLの思考

坂 / 雲 / 経営学 / 社会学 / 労働観 / work-nonwork balance / HR Tech

仕事観の変遷③(産業革命期)―「野生人」と「ミニマリスト」の生き方と働き方

 仕事観の変遷シリーズの第3回目である。第1回は「仕事観の変遷①(古代ギリシャ)―労働を取り除く or 積極的に評価する」、第2回は「仕事観の変遷②(キリスト教社会)―仕事観の背景にある宗教」と題して、過去の仕事観をひもとくことで、現代、あるいは未来の仕事観を考えてきた。今回はルソー (Jean-Jacques Rousseau) の『人間不平等起源論』、サーリンズの『石器時代の経済学』などを参照しつつ、「ミニマリスト」の質素な生き方と自由な働き方を検討したい。

 

  • 産業革命による驚くべき生産性向上と、それに伴う技術や人間のもつ力への称賛

 ヨーロッパ世界では1760年ごろから1830年代にかけて「産業革命」と呼ばれる大きな変化が起きた。以下では綿織物工業の分野で起きた技術革新に少し触れる。1733年にジョン・ケイが飛び杼 (flying shuttle) を発明し、手で杼を動かす必要がなくなり、綿織物の生産が高速化された。その後、ハーグリーブスによるジェニー紡績機(1764年)、アークライトによる水力紡績機(1771年)、クロンプトンによるミュール紡績機(1779年)、カートライトによる力織機(1785年)の発明と続く。そして1830年にはリチャード・ロバーツによって紡績は完全に自動化された。

 アリストテレスが「もしどんな道具も命令されてか、事前に察知してか、自分に課せられた仕事をやりとげることができたなら―……織機の梭がみずから左右に動き、キタラ琴の撥がみずからかき鳴らすことができたなら―、棟梁は手伝いの職人などなにも要らないし、主人は奴隷などなにも要らないことだろう」(Aristoteles) と言っているが、それが現実のものとなった。すなわち、自動織機の発明によって、従来よりもはるかに少ない人数でたくさんの綿織物を生産することができるようになった。以前の生産方式のまま生産量を増やすには労働投入を増やすしかないが、労働力人口を短期的に増やすことは不可能であり、生産量は人口による制約を受けていた。しかし「産業革命」によって(労働)生産性が飛躍的に向上し、昨日と同じ人数で、昨日よりも多く生産できるようになったのだ。これはまさに“革命的”な出来事であっただろう。人々は驚くべき物質的豊かさを経験し、この先も社会が進歩(上昇・拡大)していくことを大いに期待しただろう。

 

  • “進歩”を礼賛する人々とそれに対立するルソー

 この時代に技術、あるいは人間の知恵・情熱・努力がもつ力を称賛する考え方が流行したのは、当然のことだ。Tilgher (1929) によれば、モンテスキューは「労働に対する熱意、豊かになりたいという情熱、贅沢への強い願望を奨励」する進歩の立場に立った。またヴォルテールも同様の立場から、進歩を「人間の忍耐強い、不屈の、辛い、厳しい努力の成果」だと評価した (Tilgher, 1929)。百科全書派と呼ばれる人々は「進歩を支持」し、「彼らは労働を、学問とともに人類の進歩の最大の立役者であると考えた」(Tilgher, 1929)。まとめると、労働(人間の働き)が進歩、すなわち物質的な豊かさを実現した最大の功労者であり、それゆえに称賛されるべき、という考え方がもてはやされていた。

 この時代に、そういった考え方と逆行するような視点を持っていたのがルソー(Jean-Jacques Rousseau:1712-1778年)である。ルソーは進歩によって生み出されたのは、無用なもの、言い換えると“ガラクタ”であると考えた。彼は主著『人間不平等起源論』において、「初めて衣服や住宅を作った人は、じつは無用なものを発明したのだということは、どう考えても明らか」(Rousseau, 1755) と批判している。また進歩を追い求める過程で、苦しみもまた生み出していることを指摘している。彼は働きすぎ、美食の食べ過ぎによる消化不良、夜更かし、不摂生などを例に挙げ、「自然がわたしたちに定めている簡素で、むらがなく、孤独な生活をしていれば、こうした苦しみはほとんど避けられたはず」であり、「わたしたちを苦しめる悪の多くは、わたしたちがみずから作りだしたもの」であると述べる (Rousseau, 1755)。

 「簡素で、むらがなく、孤独な生活」としてよく取り上げられるのが『ロビンソン・クルーソー』である。イギリス人ロビンソンは航海のおもしろさに魅了され、何度も危険な目に遭いながらも、航海に出つづけるが、あるときひどい嵐に出くわし、孤島に1人で放り出されてしまう。だが彼はそこでの質素な暮らしに満足を感じている。「わたしにはじゅうぶんな食べ物があり、そのほかの必要品もある。さらにそれ以上のものがなんの役に立つのか」と語り、「強欲という悪徳」を脱した (Defoe, 1719)。孤島に身一つで放り出されたことで彼の暮らしはリセットされ、改めて必要なものとは何なのかを問い直している。

 

  • 「野生人」という理想

 ルソーは『人間不平等起源論』において、原初の状態を想像することから出発し、その状態と現代の様子を比較することで、不平等といった悪が生み出される過程を描き出している。「人類が実現したあらゆる進歩は、人類を原初的な状態からたえず遠ざけつづけている」や「かつては自由で独立していた人間」(Rousseau, 1755) という表現からも、「野生人」の暮らしを望ましいと考えているようだ。そこで以下ではサーリンズの『石器時代の経済学』も適宜参照しつつ、野生人、あるいは狩猟採集民の生き方を概観したい。

 まず物質的欲求について、狩猟採集民は「控え目」であり、「生計だけで満足」している (Sahlins, 1972)。この理由についてサーリンズは、動き回って狩猟や採集を行う「遊動生活」を営む人々にとって、「『富は重荷』にほかならない」ことを指摘している。つまり「可動性と所有は、矛盾関係」(Sahlins, 1972) にあり、また豊富な食糧がその辺に転がっているのであれば、わざわざ手元に持っておく必要性もない。このように“有限”の物質的欲望をもつ狩猟採集民は、労働も「不規則」で「きまぐれ」(Sahlins, 1972) であって、言うなればお腹がすいたらあたりから取ってくればよいのである。彼らは「ちょっと働いて必要なだけ手にいれると、ちょっと休むので、暇な時間がたいへんに多い」(Sahlins, 1972) ようだ。ではその暇な時間(余暇)は何をしているかというと、主に寝ている。というのも狩りは獲物が出現すると突発的に始まるので、常にそれに備えておく必要があるからだ。このように彼らの労働と余暇は連続している。

 

 では現代人はどうだろうか。社会を形成した人間は、常に他者を意識し、他者の評価を求める生活を送るようになった。かつて物質的欲求は満腹になればおさまったが、他者に囲まれて生きる人間は、見せびらかすために、物を絶えず買いつづけなければならない。なぜなら、次々と新しいモノが市場に登場する現代社会において、物がもつ記号としての価値は非常に速いスピードで低下するからだ。この無限の欲求に駆り立てられた人々は、勤勉に働くことに邁進する。鷲田 (2011) はこの様子を「くそまじめ」や「がちがち」という言葉で言い表した。それに対して余暇は「快楽一色」となり、労働と余暇は「両極化」した (鷲田, 2011)。

 このような現状を嘆く人々はどのような行動に出たのだろうか。その1つの例として「ミニマリスト」に注目しよう。彼らのライフスタイルは、狩猟採集民のそれとよく似て質素である。まず彼らはモノを手放すことで“必要”を見極めようとする。かつて「断捨離」が流行った時期があったが、それと共通するところが多い。この動機は人それぞれであろうが、例えば震災で物がリセットされた、引っ越しで物を処分した、あるいはたくさんの物に囲まれた親の暮らしとその不満を肌で感じてきた、などが挙げられる。彼らの部屋を写真やテレビ等で目にしたことのある人はご存知のように、その部屋には物がほとんどない。彼らは服や車をレンタル、あるいはシェアし、その他の物も必要になったらコンビニやAmazonを利用して街(家の外)に取りに行く。この考え方は自然資源の豊富さを信頼する狩猟採集民と似ている。「自分が生きていくのにどうしても必要なお金」、すなわち「ミニマムライフコスト」(佐々木, 2015) を把握し、「市場での自由を制限」した彼らは、「どこで働くか、どれだけ働くかをもっと余裕を持って決められる」(Ciulla, 2000) ようになる。例えば、先に引用した『ぼくたちに、ものモノは必要ない。』の著者でミニマリストの佐々木氏は、「手取り10万円もあれば楽しく暮らしていける」と気づき、給料は下がるが、よりおもしろい仕事ができそうな別の出版社に転職した。収入制約が弱まれば、職場選びの幅が広がるだろう。これはライフスタイルの変化によって個人が選ぶ働き方が変わる、ということの1つの好例であろう。

 

 まず1つ目は、このように“必要”を見極めた人々はどのような働き方を望むのかということだ。先に引用した「どこで働くか、どれだけ働くかをもっと余裕を持って決められる」(Ciulla, 2000) という指摘のように、働く場所 (place) と時間 (time) の選択の幅が広がることになる。ここでは時間 (time) の自由度を増した働き方に触れる。組織に属さない働き方として「フリーランス」を、組織に属する働き方として「時間限定正社員」を挙げよう。彼らの働き方は「きまぐれ」と「くそまじめ」のあいだである。というのも、フリーランスはその自由さが強調されるが、彼らにもクライアントがいて、納期も設定されている。その意味で完全に「きまぐれ」では仕事にならない。それでも自分の必要な分だけ稼げれば、そこで仕事を終了することができる。また時間限定正社員とは、俗に「時短勤務」と呼ばれるものと同じで、普通は9時から17時の7時間(昼休み1時間を除く)働くところ、例えば9時から15時の5時間だけ働くという働き方だ。こうした働き方を希望する人が今後増えていくかもしれない。

 次に2つ目だが、フリーランスや時間限定正社員として働くようになると、以前に比べて時間的余裕(余暇)が生まれることになる。その時間をどう使って行くかが問題である。國分 (2011) は「既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供」する「文化産業」によって、「暇が搾取されている」と指摘する。“暇”が生まれても“退屈”していては意味がない。暇を楽しむ訓練が必要となる。副業、趣味、勉強会、社会人のサークル活動等々、時間の使い方を自分で工夫することが求められる。

 3つ目は最近よく言われる、消費の対象が“モノ”から“コト”に変わっている、という点についてだ。ミニマリストは確かにモノの消費が少ないが、コトの消費が少ないわけではない。先に登場した佐々木氏も「自分のための『モノ』メインにお金を使っていたのを、『経験』や『人』のために使う、新しい取り組みへの『投資』のために使う」(佐々木, 2015) と述べている。具体的には、映画、音楽、ゲーム、アニメといったデジタルコンテンツの消費や、カフェ巡り、聖地巡礼、RRPG(例:リアル脱出ゲーム)、テーマパーク(例:USJ、ディズニー)といったリアルコンテンツ(体験)消費のがある。では次は“コトの記号的消費”が起こるのではないだろうか。つまり、「どこどこに行った」「なになにを見た」という体験をアピール(例:Twitterに写真・動画を投稿)するようになるのではないだろうか。その場合、コトの消費は他者の目を気にした“だけ”のものとなり、以前と同じように「がちがち」の労働に向かっていくのではないだろうか。

 

 以上をまとめるとこのような表になる。(2017.3.31 画像変えました)

 

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参考文献

Aristoteles 底本:Ross, W. D. (1957). Aristotelis politica. 邦訳, アリストテレス (2009)『政治学』北嶋美雪, 松居正俊, 尼ヶ崎徳一, 田中美知太郎, 津村寛二 訳, 中央公論新社. 邦訳, アリストテレス (2001)『政治学』牛田徳子 訳, 京都大学学術出版会.

・Ciulla, J. B. (2000). The working life. The Crown Publishing. 邦訳, ジョアン・キウーラ (2003)『仕事の裏切り』中嶋愛 訳, 翔泳社.

今村仁司 (1998)『近代の労働観』岩波書店.

國分功一郎 (2011)『暇と退屈の倫理学朝日出版社.

・Rousseau, J. J. (1755). Discours sur l’origine et les fondements de l’inegalite. Parmi les Hommes. 邦訳, ジャン=ジャック・ルソー (2008)『人間不平等起源論』中山元 訳, 光文社.

・Sahlins, M. (1972). Stone age economics. Aldine Publishing Co. 邦訳, M・サーリンズ (1984)『石器時代の経済学』山内昶 訳, 法政大学出版局.

・佐々木典士 (2015)『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』ワニブックス.

・Tilgher, A. (1929). Homo faber. Roma: Libreria di Scienze e Lettere. 邦訳, アドリアーノ・ティゲル (2009)『ホモ・ファーベル』小原耕一, 村上桂子 訳, 社会評論社.

鷲田清一 (2011)『だれのための仕事』講談社.

日本の現代社会と他者―比較によって揺さぶられるという経験

 今回は趣向を変えて、私が以前発表した卒業論文の紹介を行いたい。その動機は論文で行った現実分析が現代社会を生きる人々、特に私と同世代の若者に広く共感されるのではないか、またその分析が人々の日々の生活に役立つのではないか、と実感したからである。以下では発表時に用いたスライドを適宜示しつつ、社会学の専門知識がない人にも分かるように、できる限り平易に説明を試みたい。

 要旨は以下である。「本研究では遥か60年前にアメリカの社会学者デイヴィッド・リースマンが指摘した『他人指向型』が支配的になっている日本の現代社会を扱う。そして比較によって自分が大切にしているものが揺さぶられ、違和感を覚えつつも他者に同調する『スライム状態』を取り上げる。その『スライム状態』に伴う違和感(心の痛み、疲れ)の存在を、理論と現実分析の両面から明らかにする。現実分析からはその違和感への2パターンの対処行動もまた明らかになったが、それらは自分『だけ』、あるいは自分たち『だけ』の『世界』の中で自然体で振る舞おうとする『クローズド(閉鎖的)』な姿勢である。最後に『スライム状態』への私が考える処方箋をおまけとして参考までに添えるが、対処法については読者各々の議論と創造力に任せたい。」

 

 まず私が取り上げた現実をうまく言い表した文章を、セネカの短編「心の平静について」(岩波文庫『人生の短さについて 他二篇』より)から引用する。

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 どう感じただろうか。私はこれを読んで「まさにこれだ!」と思った。他者、様々な意見、情報、価値観などと自分を比較することによって、自分が大切にしているもの(例:倹約を大切にすること)に疑いが生じる、ということは私個人も日々経験している。言い換えると比較によって自分が動揺する、あるいは揺さぶられるということだ。「こういった経験は日本の現代社会において広く見られるのではないか」と思った私は、その裏付けを探すために現実分析を行うことにした。

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 ともにアメリカの社会学者であるリースマン (David Riesman:1909-2002) の『孤独な群衆』とマートン (Robert King Merton:1910-2003) の『社会理論と社会構造』を参照した理論分析と、日経新聞の6つの記事を用いた現実分析からは上図のようなことが分かった。

 まず「スライム状態」に伴う心の痛みや疲れが現実分析から確認され、その背景が理論的に説明された。リースマンは社会集団に共通の性格を「社会的性格」と呼んだ。もちろん個々人の性格は多様であるが、その社会(あるいは時代)を生きる人々が共通して持っている特徴があるのではないか、という議論である。彼は行為の指針に注目して「社会的性格」を3つに分類したが、特に重視しているのが「内部指向型」と「他人指向型」の2つである。まず「内部指向型」は自分の内側に「ジャイロスコープ羅針盤)」(Riesman, 1961) を持つ。それは年長の世代、特に親からの厳しいしつけによって与えられ、内面化されたものである。仲間には無関心であり孤立している。それに対して「他人指向型」は周囲にいる他人やマス・メディアに登場する同時代人を指針とするため、その動向に常にレーダーを張り巡らせている。この「他人指向型」が日本の現代社会において支配的であると先に述べたが、その理由として、① 地縁・血縁から切り離される、② 消費社会への転換、③ 内面化されたジャイロスコープに疑念が生じる、④ 企業の大規模化・組織化により分業と協働が必要になる、の4つを私は挙げた。

 次にもう1つの理論であるマートンの「準拠集団」について説明する。

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 上図のように人は何らかの対象(比較対象)と自分を比較し、それに反射させて自己評価を行っている。これが他者比較(社会的比較)の1つの機能である (高田, 2011)。その比較の結果、自分の行動や態度を決める、あるいは修正する。この比較対象の候補の集合を私は「世界」と名付けた。「世界」とは接触を通して、自分の日々の生活や思考を取り巻いているものである。自分が全く知らないものと比較することができないように、比較を行うためには対象について知る必要がある。私の見立てでは、日本の現代社会において、この「世界」の中身(他者、意見、価値観、情報)が多様化・流動化している。例えばテレビの無い時代には、日本から遠く離れたブラジルの事情を知る術はほとんどなかったが、今日ではオリンピックの様子などもリアルタイムで目にすることができる。

 またスマートフォンの普及にも触れる必要がある。スマートフォンは平成22年に9.7%であったのが4年後の平成26年には64.2%と急速に普及している。20代の利用率は94.1%と最も高く、次いで30代が82.2%、10代が68.6%と若い世代での利用が目立っている。PCでのインターネット利用は、1位:オンラインゲーム、2位:情報収集・コンテンツ利用、3位:コミュニケーションであるのに対して、携帯・スマートフォンではコミュニケーションが1位であり、主な利用目的が変化していると言える (総務省, 2014a, b, c)。スマートフォンの普及が意味することは、他者の動向を知るツールが常に身の周り(身近)にあるということだ。そしてPCがまとまった時間に利用され、ネットとリアルが比較的分離されているのに対して、スマートフォンは休憩時間や空き時間といった「すきま時間」に利用され、ネット上の他者やその考え方が日々の生活に溶け込み、それを取り巻くようになっていることが伺える。

 以上のような変化によって、様々なものの見方に触れられるメリットがある反面、多量かつ多様な情報に曝されて、知らないうちにそれらに自分の「世界」(の中身)が覆い尽されていると言えるだろう。

 

 ではこういった特徴を備えた現代社会において、人々は「スライム状態」に起因する違和感にどう対処しているのだろうか。先ほどの図を再掲する。

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 日経新聞社の6つの記事(「疲れずにつながりたい ひそかな人気「匿名」SNS」、「『ぼっち』高校生描いた小説、ベストセラーの理由」、「引き算の世界 (3) 一人満喫『ぼっち派』堂々」、「SNS疲れ? 相手限定アプリで本音の付き合い」、「家族も仲間もいるけど… 1人を満喫『ぼっち族』」、「カップル専用アプリが流行 音楽業界も新市場に注目」といったヘッドラインである)を用いた現実分析からは、図のように2タイプの対処行動が明らかになった。つまり、① 他者を切り捨て、自分「だけ」の世界に閉じこもり、自分を守ろうとする、② 漠然とした他者に区別を設け、自分たち「だけ」の世界では自然体で振る舞おうとする、の2つである。

 6つの記事に加えて、総務省の「社会生活基本調査」からも興味深いことが分かった。それが「家族回帰」である。下表のように、1996年から2011年にかけて、10代で顕著に1人でいる割合が減少し、家族や学校の人と過ごす割合が増えていることがわかる。

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 そして面白いことに「休養・くつろぎ」と「趣味・娯楽」に限定すると、下の表のように10代で顕著に学校の人といる割合が減り、家族といる割合が増えていることがわかった。

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 多様な他者と接する時間が増え、それに伴って「スライム状態」に陥り、疲れを感じているので、せめてくつろぎの時間は信頼できる家族とのんびり過ごしたい、という若い世代が増えていると解釈できるのではないだろうか。

 この2つの対処行動は、自分「だけ」、自分たち「だけ」の世界を志向している点で、「クローズド」という言葉でまとめられる。つまり、限定的で守られた世界では自由に振る舞うということだ。そしてその世界以外では比較によって揺さぶられる、という両極端な状態である。

 

 以上が現実分析であった。しかし「スライム状態」を実体験している私としては、以上の対処行動に納得することはできない。なぜなら守られた世界に逃げ込むだけでは、問題の根本的な解決になっていないからだ。そこで蛇足ではあるが、私が考えた処方箋をおまけとして付け加えたい。

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 まず私が目指すゴールは「他者やその考え方とうまく付き合っていく」ことであり、「他者が全く気にならない」ことではない。どれだけ精神を鍛えても後者は不可能であり、またもし仮にそんな人がいたとしたら傍若無人な人である。うまく付き合っていくためには、オープンな姿勢、あるいはマインドを持って「世界」の中身と向き合い(働きかけ)、それらを整理する必要がある。

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 整理するプロセスを上図に示した。まず「フィットする」もの、例えば、波長が合う(自然と同調する)、肌に合う、性に合う、と表現されるものを切り分ける。「何となく自分に合いそう」と思ったら「フィットする」ものの集合に入れる。しかしある時「やっぱりちょっと違うな…」と思ったら、外に出す。これを繰り返して自分なりの感覚(フィット感)を練り上げ、「世界」の中身との距離感を微調整していく。だがこういった意識的なプロセスでフィルターを作り上げても、その区別を「あっさりとすり抜け」(高橋, 2007)、「世界」の外から飛び込んでくるものとの出会いがある。その体験は「体験選択」と呼ばれるが、ここでは詳しく触れない。関心のある読者は『行為論的思考』(高橋由典 著)のご一読を進める。

 

 以上で論文の紹介を終わります。ご清聴ありがとうございました。

 私の拙い現実分析が日本の現代社会で日々の生活を送る読者の助けになれば、これ以上の喜びはありません。

 

参考文献

浅野智彦 (2013)『「若者」とは誰か』河出書房新社.

・Ciulla, J. B. (2000). The working life. The Crown Publishing. 邦訳, ジョアン・キウーラ (2003)『仕事の裏切り』中嶋愛 訳, 翔泳社.

賀東招二 (2013)『甘城ブリリアントパーク』(1巻). KADOKAWA/富士見書房.

玄田有史 (2001)『仕事のなかの曖昧な不安中央公論新社.

・橋元良明 (2011)『メディアと日本人』岩波書店.

・樋口善郎 (2004)「承認と他人指向」『京都大学文学部哲学研究室紀要』7, 74-93.

平川克美 (2014)『「消費」をやめる』ミシマ社.

・依田高典 (2010)『行動経済学中央公論新社.

池谷裕二 (2013)『単純な脳、複雑な「私」』講談社.

・井上忠司 (2007)『「世間体」の構造』講談社.

・March, J. G. & Simon, H. A. (1993). Organizations. (2nd ed.). Cambridge, MA: Blackwell. 邦訳, ジェームズ・G・マーチ, ハーバート・A・サイモン (2014)『オーガニゼーションズ』高橋伸夫 訳, ダイヤモンド社.

・Merton, R. K. (1949; 57). Social theory and social structure. NY: Free Press. 邦訳, ロバート・K・マートン (1961)『社会理論と社会構造』森東吾, 森好夫, 金沢実, 中島竜太郎 訳, みすず書房.

見田宗介 (1979)『現代社会の社会意識』弘文堂.

森博嗣 (2013)『「やりがいのある仕事」という幻想』朝日新聞出版.

大澤真幸 (2008)『不可能性の時代』岩波書店.

・Ortega, Y. G. (1930). La rebellion de las masas. 邦訳, オルテガ・イ・ガセット (1995)『大衆の反逆』神吉敬三 訳, 筑摩書房.

・Riesman, D. (1961; 1989). The lonely crowd (Abridged ed.). New Haven: Yale University Press. 邦訳 デイヴィッド・リースマン (2013)『孤独な群衆』加藤秀俊 訳, みすず書房.

佐伯啓思 (2015)『20世紀とは何だったのか』PHP研究所.

・Seneca (1932). Moral essays with an English translation by J. B. Basore. 邦訳, セネカ (1980)『人生の短さについて 他二篇』茂手木元蔵 訳, 岩波書店.

・島和博 (2011)「47 誇示的消費(T・H・ヴェブレン)」作田啓一, 井上俊 編著『命題コレクション社会学』(pp. 392-399), 筑摩書房.

・高田利武 (2011)『他者と比べる自分』(新版). サイエンス社.

・高橋由典 (2007)『行為論的思考』ミネルヴァ書房.

・高橋由典 (2016)「遊びの精神と体験選択動機」『社会学評論』, 67(1), 39-55.

・Veblen, T. (1899). The theory of the leisure class. 邦訳, ソースティン・ヴェブレン (2015)『有閑階級の理論』高哲男 訳, 講談社.

渡航 (2011: 2012)『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』(1, 4巻). 小学館.

日本経済新聞a (2015/5/13)「疲れずにつながりたい ひそかな人気「匿名」SNS

日本経済新聞b (2015/7/29)「『ぼっち』高校生描いた小説、ベストセラーの理由」

日本経済新聞c (2016/4/14)「引き算の世界 (3) 一人満喫『ぼっち派』堂々」

日経MJ a (2012/9/24)「SNS疲れ? 相手限定アプリで本音の付き合い」

日経MJ b (2014/12/5)「家族も仲間もいるけど… 1人を満喫『ぼっち族』」

日経エンタテインメント! (2015/10/5)「カップル専用アプリが流行 音楽業界も新市場に注目」

総務省 (2014a)「平成26年度版 情報通信白書」

総務省 (2014b)「情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査」

総務省 (2014c)「通信利用動向調査」

総務省「社会生活基本調査(平成8年度、13年度、18年度、23年度)」

仕事観の変遷②(キリスト教社会)―仕事観の背景にある宗教

 様々な時代の様々な仕事に対する考え方(仕事観)を参照することで自分に合った働き方を模索しよう、という試みの第2回である。前回は「仕事観の変遷①(古代ギリシャ)―労働を取り除く or 積極的に評価する」と題して、労働に対する2つの正反対の考え方を紹介した。

 今回はもう少し時代を進めて、キリスト教が登場した後の西洋世界(ヨーロッパ、アメリカ)の働き方について紹介したい。日本はキリスト教社会ではないので、あまり馴染みのない話が展開されるように多くの読者は思われるかもしれない。だがよく検討してみると、現代日本でもしばしば耳にする「勤勉」を重視する価値観の背景にある宗教の存在が明らかになってくるだろう。

 

(1) 古代キリスト教カトリック

 西洋世界において人々の生活に非常に大きな影響を及ぼすのはキリスト教である(あった)。Tilgher (1929) によるマタイの福音書の引用には、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。……神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば……これらのものはすべて与えられます」とある。このように労働や富それ自体は軽視された。先の古代ギリシャ人の考え方と同じように、日々の生活を超越したもの(神)が設定されたことで、仕事や労働が顧みられることはほとんどなかった。唯一労働が必要とされるのは、心と体の健康を維持し、悪い考えや邪な本能を抑え込む手段としてであり、「労働それ自体には何の価値も認められていなかった」(Tilgher, 1929)。

 中近世のカトリック社会では「各個人は、親の職業を世襲的に引き継ぎ、その身分と階級にとどまっていなければならなかった」(Tilgher, 1929)。つまり身分と職業が対応し、それらは神によってあらかじめ定められていると考えられていた。日本でも江戸時代の「士農工商」のように職業によって身分が定められていたことがあるし、現代社会においても、職業によってある程度は社会的地位が決まっている(例:医師、弁護士)と言えるだろう。

 そして「神の法則の前では、労働は決して真に自立した尊厳ある目的には至らず、<生>という目的の単なる副次的な手段にとどまっている。同様に<生>は、決してそれ自体が尊厳ある目的にはならず、来世という真の目的の単なる副次的な手段にとどまる」(Tilgher, 1929) のであった。つまり「労働 → 現世(生)→ 来世」という手段→目的関係(図式)がキリスト教徒のあいだでは広く共有されていた。「世俗生活は宗教的には価値の低いものとみなされていた」(高橋, 2011) ので、人々は世俗を離れた修道院で禁欲に励んでいた。禁欲とは「欲望にとらわれている自己を否定し、それを超えようとする」行動であり、人々は自らに難行・苦行を課すことで「自然の地位の克服」を目指した (高橋, 2011)。

 今村 (1998) によれば、この時代の農村から都市への人口流入によって生じた浮浪者と乞食たちは「矯正院 (workhouse)」に収容されたが、そこでは労働が「懲罰」として用いられた。17世紀前半になると、本人の怠惰が原因で貧しい人々は「人間の屑」とされ、神の時間を無駄に浪費しているという理由から非難された。収容所に監禁された彼らには、労働を通して禁欲的倫理が「強制注入」されたのだった。こうして「労働は、昔のように修道院の苦行の手段であることをやめて、社会生活のなかでの一種の教育手段」(今村, 1998) となった。日本の現代社会においても、刑務所では労働が更生手段として用いられており、労働の以上のような側面も依然として利用されていると言える。

 

(2) プロテスタント

 一方、後に現れたプロテスタントでは考え方が異なる。まずルター(Martin Luther:1483-1546)は「神への奉仕の唯一、最高の道は、みずからの与えられた仕事を可能な限り完璧に遂行すること」(Tilgher, 1929) とした。「宗教的信仰心>世俗的活動」という図式は「根本から否定」され、「労働は宗教的尊厳に包まれて彼の手から出て行った」(Tilgher, 1929)。すなわち労働と信仰が結びつけられ、宗教的に労働の価値が認められたのである。

 もう1人の宗教改革の立役者カルヴァン(Jean Calvin:1509-1564)の考え方はルターのそれとは少し異なる。彼は予定説をとなえたが、それは、① 神は人間から無限に離れたところにいる(罪人としての人間は神に近づくことなど到底できない)、② 神はその地点からある人々を永遠の生命に、他の人々を永遠の死滅に予定した、③ 誰が永遠の生命に予定されているかは人間には分からないし、また神のその予定を人間の営為(善行)によって覆すことも不可能である、というものだった (高橋, 2011)。つまり、個人が救済されるかどうかは超越的な神によってあらかじめ定められており、「あらゆる救済手段は無効」(高橋, 2011) となったのだ。しかし、救済されることを強く求めていた人々は、自分が救済を予定されていることを確信させる根拠・証拠を必死に求めた。そして、その救済を求めるエネルギーは労働へと向かった。こうして「日常生活における徹底した禁欲と職業労働への関心」(高橋, 2011) が芽生えた。先のカトリックについての記述から分かるように、従来、世俗活動は低く評価されており、禁欲は主に世俗を離れた場(修道院)で行われていたが、このとき禁欲は世俗(日常生活)で行われるようになったのだ。以上のように宗教的活動(聖)が日常生活(俗)に優る、という序列は解体され、「世俗の生活を送ること自体が宗教的に積極的な意味をもつようになった」(高橋, 2011)。そして「営利活動に精を出し、富を獲得することが彼らの救いのしるし」(高橋, 2011) となり、職業労働に励むことが強く動機づけられた。そして宗教的関心の圧倒的優位のゆえに低い評価を与えられてきた労働は、宗教改革を経たのち、逆に宗教的な裏付けをもって高い評価を与えられるようになった。

 

(3) 日本の現代社会との関係

 もちろん労働を宗教と結びつける考え方は、日本人には馴染みの薄いものだろう。だが特に中近世の西洋では、人々の考え方への宗教(特にキリスト教)の影響力は大きく、宗教抜きに人々の考え方(労働観)の変遷を捉えることは難しい。また現在における労働は宗教的な色を失ったかのように見えるが、その背景、あるいは根底には宗教に由来する考え方が潜んでいる。

 例えば「勤勉」を称賛する価値観は、キリスト教倫理の影響を強く受けていると言える。日本において「勤勉」を体現した存在といえば二宮尊徳(金次郎)である (橘木, 2011, 鷲田, 2011)。鷲田 (2011) は二宮尊徳を「柴を背負って歩きながら、本を読むという、究極の「勤勉」ながら族、ほとんどビョーキともいうべき時間の吝嗇家」と評している。そういった「休みのときですらそれを有効に使わなければ、という強迫観念」を、鷲田は「真空恐怖」と名付ける (鷲田, 2011)。常に何かをしていなければ落ち着かないので、「憑かれたように」(鷲田, 2011) 残業や休日出勤を行う、「仕事中毒 (workaholic)」ともいうべき人々が散見される。

 また今村 (1998) は以下のように指摘する。太古の人々は1日3時間しか労働していなかったと推測されるが、これを怠惰だと思うことは「西欧近代の勤勉主義に毒された偏見にすぎない」。そして「労働は本質的に隷属的」であるとし、「労働は人間の本質である」や「労働のなかには本来的な喜びが内在されている」といった考え方に疑問を投げかけている。確かに労働は人間が生きていくために必要な活動だが、しかしだからといってそれが人間になくてはならない本質的な活動であるとは言えない。最小限の労力で生活に必要な資源を手に入れる、という「スマート」な働き方もありだ。そして労働以外の生活に喜びを見出し、余暇を満喫するという生き方もある。もちろん仕事にも喜びや充実感を感じられる人はいるだろう。だがそうでない(例:不満、苦痛)からといって、必要以上に悩まず、「これは仕事だから仕方がない」と割り切って働くという道もあるだろう。

 

参考文献

今村仁司 (1998)『近代の労働観』岩波書店.

橘木俊詔 (2011)『いま、働くということ』ミネルヴァ書房.

・高橋由典 (2011)「プロテスタンティズムの倫理と資本主義(M・ウェーバー)」, 作田啓一,井上俊 編 (2011)『命題コレクション社会学』(pp349-359). 筑摩書房.

・Tilgher, A. (1929). Homo faber. Roma: Libreria di Scienze e Lettere. 邦訳, アドリアーノ・ティゲル (2009)『ホモ・ファーベル』小原耕一, 村上桂子 訳, 社会評論社.

鷲田清一 (2011)『だれのための仕事』講談社.