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OWLの思考

坂 / 雲 / 経営学 / 社会学 / 労働観 / work-nonwork balance / HR Tech

仕事観の変遷③(産業革命期)―「野生人」と「ミニマリスト」の生き方と働き方

 仕事観の変遷シリーズの第3回目である。第1回は「仕事観の変遷①(古代ギリシャ)―労働を取り除く or 積極的に評価する」、第2回は「仕事観の変遷②(キリスト教社会)―仕事観の背景にある宗教」と題して、過去の仕事観をひもとくことで、現代、あるいは未来の仕事観を考えてきた。今回はルソー (Jean-Jacques Rousseau) の『人間不平等起源論』、サーリンズの『石器時代の経済学』などを参照しつつ、「ミニマリスト」の質素な生き方と自由な働き方を検討したい。

 

  • 産業革命による驚くべき生産性向上と、それに伴う技術や人間のもつ力への称賛

 ヨーロッパ世界では1760年ごろから1830年代にかけて「産業革命」と呼ばれる大きな変化が起きた。以下では綿織物工業の分野で起きた技術革新に少し触れる。1733年にジョン・ケイが飛び杼 (flying shuttle) を発明し、手で杼を動かす必要がなくなり、綿織物の生産が高速化された。その後、ハーグリーブスによるジェニー紡績機(1764年)、アークライトによる水力紡績機(1771年)、クロンプトンによるミュール紡績機(1779年)、カートライトによる力織機(1785年)の発明と続く。そして1830年にはリチャード・ロバーツによって紡績は完全に自動化された。

 アリストテレスが「もしどんな道具も命令されてか、事前に察知してか、自分に課せられた仕事をやりとげることができたなら―……織機の梭がみずから左右に動き、キタラ琴の撥がみずからかき鳴らすことができたなら―、棟梁は手伝いの職人などなにも要らないし、主人は奴隷などなにも要らないことだろう」(Aristoteles) と言っているが、それが現実のものとなった。すなわち、自動織機の発明によって、従来よりもはるかに少ない人数でたくさんの綿織物を生産することができるようになった。以前の生産方式のまま生産量を増やすには労働投入を増やすしかないが、労働力人口を短期的に増やすことは不可能であり、生産量は人口による制約を受けていた。しかし「産業革命」によって(労働)生産性が飛躍的に向上し、昨日と同じ人数で、昨日よりも多く生産できるようになったのだ。これはまさに“革命的”な出来事であっただろう。人々は驚くべき物質的豊かさを経験し、この先も社会が進歩(上昇・拡大)していくことを大いに期待しただろう。

 

  • “進歩”を礼賛する人々とそれに対立するルソー

 この時代に技術、あるいは人間の知恵・情熱・努力がもつ力を称賛する考え方が流行したのは、当然のことだ。Tilgher (1929) によれば、モンテスキューは「労働に対する熱意、豊かになりたいという情熱、贅沢への強い願望を奨励」する進歩の立場に立った。またヴォルテールも同様の立場から、進歩を「人間の忍耐強い、不屈の、辛い、厳しい努力の成果」だと評価した (Tilgher, 1929)。百科全書派と呼ばれる人々は「進歩を支持」し、「彼らは労働を、学問とともに人類の進歩の最大の立役者であると考えた」(Tilgher, 1929)。まとめると、労働(人間の働き)が進歩、すなわち物質的な豊かさを実現した最大の功労者であり、それゆえに称賛されるべき、という考え方がもてはやされていた。

 この時代に、そういった考え方と逆行するような視点を持っていたのがルソー(Jean-Jacques Rousseau:1712-1778年)である。ルソーは進歩によって生み出されたのは、無用なもの、言い換えると“ガラクタ”であると考えた。彼は主著『人間不平等起源論』において、「初めて衣服や住宅を作った人は、じつは無用なものを発明したのだということは、どう考えても明らか」(Rousseau, 1755) と批判している。また進歩を追い求める過程で、苦しみもまた生み出していることを指摘している。彼は働きすぎ、美食の食べ過ぎによる消化不良、夜更かし、不摂生などを例に挙げ、「自然がわたしたちに定めている簡素で、むらがなく、孤独な生活をしていれば、こうした苦しみはほとんど避けられたはず」であり、「わたしたちを苦しめる悪の多くは、わたしたちがみずから作りだしたもの」であると述べる (Rousseau, 1755)。

 「簡素で、むらがなく、孤独な生活」としてよく取り上げられるのが『ロビンソン・クルーソー』である。イギリス人ロビンソンは航海のおもしろさに魅了され、何度も危険な目に遭いながらも、航海に出つづけるが、あるときひどい嵐に出くわし、孤島に1人で放り出されてしまう。だが彼はそこでの質素な暮らしに満足を感じている。「わたしにはじゅうぶんな食べ物があり、そのほかの必要品もある。さらにそれ以上のものがなんの役に立つのか」と語り、「強欲という悪徳」を脱した (Defoe, 1719)。孤島に身一つで放り出されたことで彼の暮らしはリセットされ、改めて必要なものとは何なのかを問い直している。

 

  • 「野生人」という理想

 ルソーは『人間不平等起源論』において、原初の状態を想像することから出発し、その状態と現代の様子を比較することで、不平等といった悪が生み出される過程を描き出している。「人類が実現したあらゆる進歩は、人類を原初的な状態からたえず遠ざけつづけている」や「かつては自由で独立していた人間」(Rousseau, 1755) という表現からも、「野生人」の暮らしを望ましいと考えているようだ。そこで以下ではサーリンズの『石器時代の経済学』も適宜参照しつつ、野生人、あるいは狩猟採集民の生き方を概観したい。

 まず物質的欲求について、狩猟採集民は「控え目」であり、「生計だけで満足」している (Sahlins, 1972)。この理由についてサーリンズは、動き回って狩猟や採集を行う「遊動生活」を営む人々にとって、「『富は重荷』にほかならない」ことを指摘している。つまり「可動性と所有は、矛盾関係」(Sahlins, 1972) にあり、また豊富な食糧がその辺に転がっているのであれば、わざわざ手元に持っておく必要性もない。このように“有限”の物質的欲望をもつ狩猟採集民は、労働も「不規則」で「きまぐれ」(Sahlins, 1972) であって、言うなればお腹がすいたらあたりから取ってくればよいのである。彼らは「ちょっと働いて必要なだけ手にいれると、ちょっと休むので、暇な時間がたいへんに多い」(Sahlins, 1972) ようだ。ではその暇な時間(余暇)は何をしているかというと、主に寝ている。というのも狩りは獲物が出現すると突発的に始まるので、常にそれに備えておく必要があるからだ。このように彼らの労働と余暇は連続している。

 

 では現代人はどうだろうか。社会を形成した人間は、常に他者を意識し、他者の評価を求める生活を送るようになった。かつて物質的欲求は満腹になればおさまったが、他者に囲まれて生きる人間は、見せびらかすために、物を絶えず買いつづけなければならない。なぜなら、次々と新しいモノが市場に登場する現代社会において、物がもつ記号としての価値は非常に速いスピードで低下するからだ。この無限の欲求に駆り立てられた人々は、勤勉に働くことに邁進する。鷲田 (2011) はこの様子を「くそまじめ」や「がちがち」という言葉で言い表した。それに対して余暇は「快楽一色」となり、労働と余暇は「両極化」した (鷲田, 2011)。

 このような現状を嘆く人々はどのような行動に出たのだろうか。その1つの例として「ミニマリスト」に注目しよう。彼らのライフスタイルは、狩猟採集民のそれとよく似て質素である。まず彼らはモノを手放すことで“必要”を見極めようとする。かつて「断捨離」が流行った時期があったが、それと共通するところが多い。この動機は人それぞれであろうが、例えば震災で物がリセットされた、引っ越しで物を処分した、あるいはたくさんの物に囲まれた親の暮らしとその不満を肌で感じてきた、などが挙げられる。彼らの部屋を写真やテレビ等で目にしたことのある人はご存知のように、その部屋には物がほとんどない。彼らは服や車をレンタル、あるいはシェアし、その他の物も必要になったらコンビニやAmazonを利用して街(家の外)に取りに行く。この考え方は自然資源の豊富さを信頼する狩猟採集民と似ている。「自分が生きていくのにどうしても必要なお金」、すなわち「ミニマムライフコスト」(佐々木, 2015) を把握し、「市場での自由を制限」した彼らは、「どこで働くか、どれだけ働くかをもっと余裕を持って決められる」(Ciulla, 2000) ようになる。例えば、先に引用した『ぼくたちに、ものモノは必要ない。』の著者でミニマリストの佐々木氏は、「手取り10万円もあれば楽しく暮らしていける」と気づき、給料は下がるが、よりおもしろい仕事ができそうな別の出版社に転職した。収入制約が弱まれば、職場選びの幅が広がるだろう。これはライフスタイルの変化によって個人が選ぶ働き方が変わる、ということの1つの好例であろう。

 

 まず1つ目は、このように“必要”を見極めた人々はどのような働き方を望むのかということだ。先に引用した「どこで働くか、どれだけ働くかをもっと余裕を持って決められる」(Ciulla, 2000) という指摘のように、働く場所 (place) と時間 (time) の選択の幅が広がることになる。ここでは時間 (time) の自由度を増した働き方に触れる。組織に属さない働き方として「フリーランス」を、組織に属する働き方として「時間限定正社員」を挙げよう。彼らの働き方は「きまぐれ」と「くそまじめ」のあいだである。というのも、フリーランスはその自由さが強調されるが、彼らにもクライアントがいて、納期も設定されている。その意味で完全に「きまぐれ」では仕事にならない。それでも自分の必要な分だけ稼げれば、そこで仕事を終了することができる。また時間限定正社員とは、俗に「時短勤務」と呼ばれるものと同じで、普通は9時から17時の7時間(昼休み1時間を除く)働くところ、例えば9時から15時の5時間だけ働くという働き方だ。こうした働き方を希望する人が今後増えていくかもしれない。

 次に2つ目だが、フリーランスや時間限定正社員として働くようになると、以前に比べて時間的余裕(余暇)が生まれることになる。その時間をどう使って行くかが問題である。國分 (2011) は「既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供」する「文化産業」によって、「暇が搾取されている」と指摘する。“暇”が生まれても“退屈”していては意味がない。暇を楽しむ訓練が必要となる。副業、趣味、勉強会、社会人のサークル活動等々、時間の使い方を自分で工夫することが求められる。

 3つ目は最近よく言われる、消費の対象が“モノ”から“コト”に変わっている、という点についてだ。ミニマリストは確かにモノの消費が少ないが、コトの消費が少ないわけではない。先に登場した佐々木氏も「自分のための『モノ』メインにお金を使っていたのを、『経験』や『人』のために使う、新しい取り組みへの『投資』のために使う」(佐々木, 2015) と述べている。具体的には、映画、音楽、ゲーム、アニメといったデジタルコンテンツの消費や、カフェ巡り、聖地巡礼、RRPG(例:リアル脱出ゲーム)、テーマパーク(例:USJ、ディズニー)といったリアルコンテンツ(体験)消費のがある。では次は“コトの記号的消費”が起こるのではないだろうか。つまり、「どこどこに行った」「なになにを見た」という体験をアピール(例:Twitterに写真・動画を投稿)するようになるのではないだろうか。その場合、コトの消費は他者の目を気にした“だけ”のものとなり、以前と同じように「がちがち」の労働に向かっていくのではないだろうか。

 

 以上をまとめるとこのような表になる。(2017.3.31 画像変えました)

 

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参考文献

Aristoteles 底本:Ross, W. D. (1957). Aristotelis politica. 邦訳, アリストテレス (2009)『政治学』北嶋美雪, 松居正俊, 尼ヶ崎徳一, 田中美知太郎, 津村寛二 訳, 中央公論新社. 邦訳, アリストテレス (2001)『政治学』牛田徳子 訳, 京都大学学術出版会.

・Ciulla, J. B. (2000). The working life. The Crown Publishing. 邦訳, ジョアン・キウーラ (2003)『仕事の裏切り』中嶋愛 訳, 翔泳社.

今村仁司 (1998)『近代の労働観』岩波書店.

國分功一郎 (2011)『暇と退屈の倫理学朝日出版社.

・Rousseau, J. J. (1755). Discours sur l’origine et les fondements de l’inegalite. Parmi les Hommes. 邦訳, ジャン=ジャック・ルソー (2008)『人間不平等起源論』中山元 訳, 光文社.

・Sahlins, M. (1972). Stone age economics. Aldine Publishing Co. 邦訳, M・サーリンズ (1984)『石器時代の経済学』山内昶 訳, 法政大学出版局.

・佐々木典士 (2015)『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』ワニブックス.

・Tilgher, A. (1929). Homo faber. Roma: Libreria di Scienze e Lettere. 邦訳, アドリアーノ・ティゲル (2009)『ホモ・ファーベル』小原耕一, 村上桂子 訳, 社会評論社.

鷲田清一 (2011)『だれのための仕事』講談社.